見出し画像

私と武装とLive Forever

ミディアムヘアをゆるく巻き、丁寧にファンデーションを塗って、長時間ブルーライトに晒された目元を労るように優しくコンシーラーをなじませる。この前酔った勢いでポチったばかりのテラコッタのアイシャドウを塗って、ビューラーでしっかりあげたまつげにマスカラを塗る。トレンドを意識してチークはベージュ、リップはブラウン。
ゆるっとしたくすみグリーンのニットにスキニーデニム、ローヒールのパンプスで気合いが入っている訳ではなく、なんとなく着た服がオシャレなんですという風情を醸し出す魂胆。

もしここに母親がいたら一人で買い物に行くだけなのに何をそんなにオシャレしてんの、と笑われそうだが、母は全くわかっていない。「週末に一人でセールに来ている女」と「週末に一人でセールに来ざるを得ない女」の間にはちょっとやそっとじゃ乗り越えられない壁がそびえ立っていて、私は後者には死んでも見られたくない、というくだらないプライドがある。
全身鏡で全体のバランスを、指差しでガス・電気が消えていることを確認し、この世で一番安全な家を出る。

出かける準備が武装になったきっかけははっきり覚えていないが、社会人になって割とすぐに「これまで彼氏がいたことがないという事実はそれなりに人をビビらせる」と気付いたことは大きかったと思う。
それまでは寝巻きみたいな格好でどこへでも行けた。いや、正確には寝巻きみたいな格好で行けるところにしか行かなかった。洋服は会社用もお出かけ用もユニクロ・GU・earth music&ecologyのどれかでよかったし、化粧品はマツモトキヨシで揃うもので十分。たまにデパートに行っても、店員さんに「場違いな奴来た(笑)」と思われていないか気が気でなく、ウィンドーショッピングすらもまともにできなかった。
でもそれで困ることもなく、特に気にせずのんびり生きていた。でも、世の中は私にずっとのほほんとしていることを許さなかった。

女子校育ちではないが、基本的に女子の多い環境で育ってきた。
文系で、中・高ともに部活は茶道部で、小学校から高校まで続けた習い事はピアノ。大学で入った英文科の男女比は2:8だし、ジャズバンドサークルでも連むのは女子ばかりだった。

ステレオタイプとして「女子はオシャレと恋バナとスイーツが好き」みたいなものがあるが、私はどれにもあまり興味がなかった。新作のスイーツよりも新米のコシヒカリのおにぎり(塩昆布入り)の方が嬉しい。
友人の中にはオシャレや恋バナやスイーツが好きな人もいたが、好みを押し付けるような人やズケズケと遠慮なしに個人の問題に首を突っ込む人は幸いなことにいなかった。
そして何より私にとって居心地がよかったのは、恋人の有無や恋愛事情について聞くのはそれなりに信頼関係が築けてから(それなりとは一口ちょうだい、が気軽に言えるレベルをイメージしてもらえばよい)、聞き手は話を促すことはしても好奇心のままに根掘り葉掘り聞くことはタブーという暗黙のルールが守られていたことだった。

だから、会社の新入社員で集まった飲み会で、向かいの席の阪本くんの彼女の話からおもむろに私に恋人の有無を聞かれたときは面食らった。
え?私たちまだ知り合って一週間も経ってないよね?一口ちょうだいなんてとても言えないよね?なんでいきなり聞いてくるの?この場のMCなの?
止めどなく溢れ出る"?"を押さえながら、「え、私?いないよ〜」と笑いながら答える。急に乾き出した口の中をビールで潤す。頼むからゆっくりアジの刺身を堪能させてくれ。

私の答えを聞いた阪本くんは続けた。「へぇ〜そうなんだ。どれくらい?」
研修の時からうっすら感じてたけどやっぱりこの人苦手だなと思いつつ、答えない訳にもいかず、何も知らなかった22歳の私は正直に答えた。
「ええっと、どれくらいっていうか、今まで付き合ったことないんだよね」

その瞬間、私の座る6人がけテーブルだけ空気の動きが一瞬止まった気がした。すっかりMC気取りの阪本くんが私の顔から服までを改めて見て発した「あ、なるほどね、マジか」を皮切りにまた空気は動き出し、話題は隣の田口さんに移って行った。

ほっと胸を撫で下ろしつつ、自分の発言に対するみんなの反応が頭から離れなかった。阪本くんの語尾にはうっすら滲む(笑)のニュアンスも、斜め向かいの美人なともちゃんが一瞬見せた悲しげな表情も、隣の田口さんの少し見開かれた目も。

「恋人がいたことがない」というのは「イチヂクを食べたことがない」とか「日光の東照宮に行ったことがない」と同じ類の話だと思っていたが、どうやらそうではなく、嘲笑や同情や喫驚の対象らしい。
私は鈍感な方ではあるが、残念ながら阪本くんの「なるほど」が何に対する「なるほど」なのか分からないほど鈍感ではなかった。

その他にもいろいろ社会人になってから学んだことがある。
化粧直しとは鼻の油をトイレットペーパーで押さえるだけではないこと。暑くても9月になったら少しずつ深い色の服に切り替えること。眉毛は薄くても手入れは別途必要なこと。
知らないことだらけだったので、周りを見て、雑誌を読んで、SNSをチェックして、私の知らない常識を学んだ。新しいことを覚えるのは楽しかったけど、純粋な知的好奇心100%ではないことは自分でもわかっていた。
私は悔しかったのだ。大して親しくもない奴に「なるほどね」と言われて。味方のはずの女の子にも同情されて、驚かれて。

〜♪♪♪
「馴染みのあるメロディだ」と思った0.5秒後に「新宿の発車音だ」と気づき、慌てて電車を降りる。昔のことを思い出しているうちに目的地に着いていた。土日の新宿は人が多くて好きではないが、今日はずっと狙っていたスキンケア用品をセール価格で買えるチャンスなので仕方ない。
不規則に動く人の波の合間を縫って、目当てのブランドの店舗を目指し、辿り着くなり自分から店員さんに話しかける。
「すみません、保湿のクリームをネットで見て気になってて」
「かしこまりました。ありがとうございます。種類がいくつかあるので、お時間がおありでしたらおかけください。ご説明いたします」

研修生のバッチをつけたかわいらしい店員さんの一生懸命な説明を聞いているうちにいろいろ欲しくなって、ちょうど化粧水も切れていたことを口実に、ブースターと化粧水とクリームを買うことにした。しめて15,800円、セールの割引が入って14,220円。ぽんと躊躇いなく出せる金額ではないが、今月は残業代も少し出るはずなので問題ない。

クレジットカードを預けて会計待ちの間、ふと隣のカウンターを見ると男女二人組の男が支払いをしている一方で、女はパンフレットを真剣に見つめている。横顔から察するにおそらく同い年ぐらいだと思うが、ラベンダー色のフリフリ花柄ワンピースに茶色の厚底パンプス、黒のイブサンローランのショルダーバッグの組み合わせはちぐはぐで、明るく染めた茶髪はパサつきが目立つ。
つまり、武装が必要ないタイプの子なのだ。トレンドとか年相応とか、そういう難しいことを気にせず自分の好きな服を手に取れる人。全く羨ましくないと言えば嘘になるかもしれないが、そうなりたいかと言われるとそうでもない。

たくさんの時間とお金を費やして、ようやく掴んできたのだ。イタくなくて、今っぽくて、自分に似合っていて、恋人がいたことがなくて当然とナメられなくて、初めて入るお店で物怖じせず店員さんに話しかけられて、一人で街を歩いていても惨めにならず楽しい気分になれる身なりを。
去年の忘年会で久しぶりにともちゃんに会った時、ミサちゃんは会う度に垢抜けて綺麗になるね、と言われてとても嬉しかった。オシャレもメイクも初めは知的好奇心100%で始めた訳ではなかったけれど、だんだんその割合は高くなっている実感がある。私はこれからも趣味と実益を兼ねて武装していくのだ。

「すみませ〜ん、カード決済の機械が混み合ってまして、大変お待たせいたしました。あと、今回12,000円以上お買い上げいただいたので、ノベルティのポーチもお入れしておきますねっ」
店員さんの声で我に返り、ありがとうございます、と微笑んでカウンターを立つ。店舗の出口で深々とお辞儀をされるのはどうも苦手で、早めに一度会釈をした後は敢えて後ろを見ないようにしている。

鞄からワイヤレスイヤホンを取り出して、シャッフルで音楽をかけるとoasisのLive Foreverが流れ始めた。どうせこの雑踏じゃ周りには聞こえまい。小さくめいっびー、と声に出してみる。永遠に生きるなんて私は御免だけど、とりあえず今日買ったスキンケア一式を試すまでは死ねないな、と思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?