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花束みたいな恋と花火大会のラスト10分

花束みたいな恋をしたをNetflixで見て、なんだか気持ちが落ち着かなくてこのnoteを書いている。

花束は、きれいで華やかでいい香りで、いただけばもちろん嬉しいけれど、ちゃんと水を変えたとしても日に日に萎れていく様を見るのはつらい。元気は無いけどまだ大丈夫、まだ捨てなくていい、と粘っていると、瑞々しさを失った花びらは指で撫でるだけでほどけるように落ちてしまう。

あまりたくさん映画を見ている訳ではないので、もしかしたら私が知らないだけなのかもしれないけれど、恋愛映画で芽を出して蕾をつけて花が開く過程ではなくて、きれいに咲いた花が萎れていく様を描いているものってあんまりないんじゃないかと思う。
序盤で早々に開く花はあまりにキラキラしていてまぶしくて、だからこそ萎れた時に悲しいし、きれいだった時を知っているから簡単に手放せない。

美しいシーンはどこかと言われたら、やはり二人が出会ってすぐの麦の部屋で二人で本棚を眺めるシーンとか、押しボタン式の横断歩道のシーンとか、海のシーンとか、引っ越しのシーンとかが思いつくのだけど、それに負けないくらい最後の一日が美しい。ファミレスで若い二人組に自分達を重ねて涙を流す麦と絹の美しさと言ったら。

花火大会みたいだなと思った。もうすぐ終わってしまうのはその場にいる人全員が分かっている、ラスト10分の花火大会。今年の夏に一片の悔いも残さないように、と言わんばかりに高いところには大玉の花火が上がって、低いところには小さい花火が次々上がって、騒がしい破裂音の中で空全体がまばゆく輝くあの感じ。


全ての恋が花束みたいなものかというとそうではないと思う。多肉植物みたいな恋とか蚊取り線香みたいな恋とかいろいろな形がある中、たまたま二人の恋は花束みたいで、あまり結婚には向かない形だったのだ。ドライフラワーにして持っておくこともきっとできたけど、あえてそうはしなかったから、別れても二人で並んでタピオカを飲みながら映画を見られた。

麦も絹も、別の人と恋をして結婚するかもしれない。でもその人はじゃんけんでパーがグーより強いことに対して疑問など一度も持ったことがない可能性が高い。カラオケでGReeeeNやセカオワを歌うかもしれないし、ガスタンクにもミイラにも興味はないかもしれないし、駅から30分なんて不便すぎて無理と言うかもしれない。その恋はきっと花束みたいな恋にはならない。メインストリームからも大通りからも外れて、駅から30分かかる道を焼きそばパンをかじりながら歩ける二人だったから、あんなに美しくてまぶしい恋だったのだと思う。

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