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わたしが福山シティFCの広報になるまで

今年の3月から福山シティFCの広報として入社した、小林彩海(さみ)です。弊クラブのプレーヤーズヒストリーのように、わたしの人生と、福山シティFCの広報になるまでを綴りました。拙い文章ですが、お読みいただけますと幸いです。

幼少期

2000年7月13日生まれ。愛知県の東郷町という田舎のまちで育つ。警察官である父は、私が生まれた当時、沖縄サミットに警備として派遣されていた。名前に海をつけたいという想いもあったことから、彩海(さみ)と名付けられた。幼少期は2つ上の兄の影響もありおてんばで、兄と遊ぶのが何よりも好きだった。周りの親戚には男の子しかいなかった事もあり、家族からはとにかく可愛がってもらったのを今でも覚えている。兄はこの時サッカーを始めており、私はバスケットボールを始めた。

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サッカーとの出会い

兄はかっこよくて頭も良かった。サッカーでは愛知県の選抜にも選ばれていた。そんな兄のことは大好きだったが、サッカーは嫌いだった。家族旅行は兄の遠征先。家に帰れば兄の試合映像を見るばかり。サッカーのルールや楽しさを知らなかったこともあり、サッカー中心の生活が嫌だった。
小学生になり、バスケットボール部に入部した頃から私の試合映像を撮ってくれることも増えたが、兄の方がレベルも高くなんとなく悔しかった。この頃から、兄は潜在能力が高いのだとはっきり感じていた。もちろん、兄は努力家であることを知っていたが、そもそものスタートラインが違うことを確信していたため、兄の倍やらないと追いつけないのだと小学生ながらに感じとっていた。

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〜高校時代

バスケットボールを始めた頃から怪我が多く、悔しい思いをすることばかりだった。それでも辞めず、中学、高校とバスケットボール部に入部し打ち込んでいた。高校では顧問の先生がバスケットボール未経験だったため、練習メニューやセットプレーを考えることもあった。「人一倍やらなくては」という思いから毎朝一番に学校へ行き、ひたすら練習をしていた。

しかし、高校一年生の冬に右肩を痛めた。近所の整形外科に行くも原因がわからず、紹介状を渡され大学病院に行った。検査を一通り終えたその日の診察で、右肩の手術が決まった。バンカート損傷だった。バスケットボールを始めた頃から亜脱臼を繰り返していたが、痛いのはその一瞬だけであったため気にしていなかった。しかし、気づいた頃には手術せざるを得ない状況にまでなっていた。離脱期間も毎日部活に行き、できることを探すだけの日々を過ごした。リハビリのための病院は、自宅から高速に乗って1時間以上かかる場所だったが、毎週通った。嫌な顔せず毎回送迎してくれていた母には感謝しかない。

ある程度リハビリが落ち着いた頃から、左手のハンドリングやドリブル練習をひたすら行なっていた。半年以上のリハビリ期間を経て、右手を使えるようになった頃、酷使していた左肩に違和感を感じ、診察をしてもらったが左肩の手術も決まった。それが高校二年生の冬だった。高校生活最後の大会にはテーピングやサポーターをして試合に出させてもらったが、試合中に右肩を脱臼し、途中退場。会場に響き渡るほど大泣きした。これで私のバスケットボール人生は終わった。

幼少期から努力を続けていたが、最後まで報われなかった。
二度としたくないと思うほど苦しい経験となったが、バスケットボール部の1つ上の先輩とは毎年ディズニーに行くほど仲が良く、高校時代に出会った顧問の先生には帰省のたびに挨拶に行っている。これまで出会った友人や先生には、本当に恵まれたと思う。だからこそ、今後悔はない。

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引退後は何も手につかなかった。しかし、高校卒業後の進路は常に考えていた。勉強は1年生の時からバスケットボールと同じくらい頑張っていたため成績はよかった。英語が好きだったことや、バスケットボールを通じて経験した、選手としての苦悩を何かに活かせないかと考え、メンタル面でも寄り添うことができる、スポーツ選手の通訳になりたいと考えていた。高校で出会った、恩師の大木慶志先生(現在星城高校サッカー部監督)とのご縁があり、名古屋グランパスの通訳の方を紹介してもらった。そこで多くの話を聞き、毎日沢山悩んだが、一番近道だと信じて新潟県にあるJAPANサッカーカレッジへの進学を決めた。

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新潟県での生活

新潟県では一人暮らしをして学校に通っていた。アルビレックス新潟シンガポールと提携していたため、入学当初から2年生になったらシンガポールへ行くと決めていた。当時先生だった岡田浩弥先生(現在鎌倉インターナショナルFC広報兼国際推進事業担当)が卒業生であり、シンガポールへも行っていたことから相談していると、ご縁がありカナダのチームを紹介してもらった。カナダに半年間、シンガポールに1ヶ月間行くと決めて、1年生は北信越リーグ1部、2部とアルビレックス新潟の運営実習を行なっていた。実習は大変な上に忙しかったが、仲間や先生に恵まれていた事もあり、楽しかった。アルビレックス新潟では後援会という部署に配属していただいて、ファン、サポーターの方々に名前を覚えてもらい、時には差し入れをいただくなど、本当によくしてもらった。また、新潟県でも恩師と呼べる先生に出会えた。今でも近況報告を欠かさず行なっている。

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アルビレックス新潟サポーターさんInstagram

2年生になり、海外へ行く準備を進めていたところ、新型コロナウイルスの影響でカナダがロックダウンとなった。入学時から計画していたが、全てダメになってしまった。先が見えなくなり、ひたすら落ち込むことしかできなかった。スポーツ業界で働くことが、本当に自分の目指していたことなのかもわからなくなり、就職浪人も考えた。

少し状況が落ち着いて、10月から国内クラブへのインターンシップを始めた。インターンシップ先の方々の中には卒業生もいて、出逢いに恵まれた。やりたいことをやらせてもらえて、通訳でなくても、サッカークラブで働こうと決断できたのはこのインターシップがあったからだと言える。
そして、11月に福山シティFCへインターンシップに行った。主に広報業務を任せてもらい、代表から私が新潟で学んだことや、クラブに対する意見を求められたのが嬉しかった。選手や現場スタッフの方もびっくりするぐらい良い人で、こんなクラブがあるのかと驚いたのを覚えている。本当に良いクラブだと素直に感じた。その後も他クラブでインターンシップを経験したが、今年の3月から広報として入社させていただくことになった。

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入社5ヶ月目の現在

福山に来て今月で5ヶ月目になる。両親がつけてくれた「彩海」という名前は、珍しい事もあり、周りの方からは「彩海ちゃん」と呼んでもらえることが増えた。選手やクラブの事だけでなく、広報の私まで覚えてもらえている事が嬉しい。福山に来て良かったと思える瞬間の一つ。未だに福山の道は覚えられないし、福山について知らないことばかりだが、選手やスタッフ、クラブの魅力は熟知している。「広報」という職業に就いたからには、私が知っている選手、スタッフの人柄、クラブの取り組みなどを広く報じ、多くの人に届けていきたい。

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