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どうしてアメリカのハンバーガーはあんなに大きいのだろう。

私は映画が好きだ。中でも特にインディース感のある、生活感の滲む、そんな映画が。
え?タイトルにあるハンバーガーのサイズ問題と全然関係ねえじゃん。そんな風に思った人も、その謎が解けるまでに3分足らずなので、最後まで読んでみて欲しい。

物語=フィクションに求めるもの

冒頭に、私は映画が好きと書いた。1ヶ月に平均して2、3回は、劇場に一人で赴く。本当はもっと行きたいくらいだが、金銭上の問題もあるので。
映画の好きなところは、しっかりと私たちを傷つけてくれるところだ。
私たちが芸術と接する時、いかなる形であれちゃんと傷つかないと、芸術は何かを教えてはくれない。

中でも個人的な真打はヒューマンドラマで、人の心の微細な動きや重なり合い、すれ違いと巡り会いを物語に求めてしまう。更には、日常にフォーカスしたような、リアルと陸続きの世界を描いてくれていたら、なおさら心を掴まれる。
空間の閉ざされた、いい意味で所帯染みた空気感を持つ、人間臭い、全てが今すぐにでも実際に起こり得そうなことで構成された、そんな映画だ。

それと反対に、いかにもドラマチックなシチュエーションや展開のものにはなんだか辟易してしまう。
溢れ出すフィクション感、非日常すぎる世界観、わざとらしい演出、「いやいやそれは物語だからだろ」感…
卑屈な私には、スケールのデカさで誤魔化しているだけのように思えてしまい、その怠惰が許せないのだ。
デカいことをやって、現実にはありえない感動物語を打って、過激なアクションで多くの敵が死んで、壮大な絶景を映し出して、驚かない人間はいない。
ただ、その驚きは「非日常」を目の当たりにしたということに対する反応に過ぎないのだ。

私は“興ざめすることなく没入できるフィクション”を求めているのかもしれない。リアルっぽいフィクションにこそ真の物語は生まれ、美しさは宿る。

そんな嗜好を持つ私は、結果として米国作品よりも、日本や欧州の作品を見ることが多い。これは断じて意識して選択しているわけではないのだが、自然とそうなっている、という次元の話だ。例えるなら、スケールの大きいマーベルなどの戦闘もの?ヒーローもの?はアメリカならではの文化のような気がする。
だから私は、アメリカ映画はなんとなくスケールがでかすぎる、これではなんだか傷つききれないと感じてしまうことが、相対的に多い。


やたらとサイズ感の大きい国、アメリカ

でも、待てよと思った。

そういえば、アメリカのスケールがでかいのは映画だけじゃない。
マクドナルドでSサイズを頼んで出てくるコークも、スーパーで手に取るカップケーキも、彼らが住んでる家も、In N Out burgerで提供されるハンバーガーも、全てが規格外にデカいじゃないか。  

ここからは私の空想が編み出した仮説の話。

なんでだろう?
彼ら人間のサイズ自体が生物学的にアジアのそれよりデカいから?
いや、人間のサイズに合わせて物も全てを大きくしているなんていう、そんな単純な話なのだろうか。

私説だが、これはそんな物理的で単純なことではなく、アメリカという国が紡いだ歴史に起因する"文化"なのだろうと思う。

アメリカという国の始まりの時期を定義するのは少し難しいが、
17世紀初頭、当時のイングランドにおいてはジェームズ1世による宗教的弾圧に喘ぐ分離派のピューリタン達がいた。彼らはその弾圧に耐え兼ね、メイフラワー号に乗り、アメリカに渡ってきた。
彼らはピルグリム・ファーザーズと呼ばれ、渡りついた地、アメリカ大陸において、キリスト教徒にとって理想的な国家を築くことを目指した。


めちゃくちゃざっくり言うならば、欧州にはもう住めん!となった(もしくはアメリカ大陸に大志を抱いた)西洋人たちが、新天地を求め、ドヤドヤと移住してきた地、それがかつてのアメリカであった。


アメリカという希望の地に対する彼らの意気込みは、「ここで成功するぞ」「ここでこそ生きていくぞ」なにがしの形であれこういう前向きなものであっただろう。
「アメリカンドリーム」である。

欧州を窮屈に思いここに来た者たちは、更にこう考えたに違いない。
「こんな広い土地では、広大な土地の支配、つまりは規模の大きさこそがの成功の象徴だ!」



ハンバーガーがデカいワケ(私の仮説)

こういった、必然とも言える歴史的背景が「スケールのデカい」文化を生み出した。
だからアメリカでは現在においても尚、「経済的に大きく成功を収める」ことも”立派”とされるのが国民的価値観なのである。

だからこそ、
やたらと大きなハンバーガーを作る。
やたらと商業的規模の大きい映画を演出する。
そういう事によって、彼らの資本の「豊かさ」を誇示しているのである。
「どうだ?このサイズの実現が君たちにできるか?」と、諸他国にマウントを取らんばかりではないか。

そういったわけで、アメリカ国内における概念という概念が全て、規格外サイズ仕様なカラクリなのだ。



ボヤキ、言い訳、内省

今までに書いたことはほんのついこの間に、ちょっと考えついたような、あくまで「仮説」に過ぎない。
しかしもしかすると、私の中で今まで言語化されていなかった、彼らのスケールのデカさから感じる傲慢とも思える冷たさが、これまでの私を好かん気持ちにさせていたのかもしれない。
と思った。

こういうことを考えてしまう自分は、幼いことも自負している。
オマケに、私は紛れもなく、ディズニーランドやUSJみたいなテーマパークに年に数回行っている時点で、「スケールのデカい世界観によるワクワク感」の享受者でもあるのだ。
だからもう少し歴史的潮流を受けた文化に寛容になれることを期待して、このnoteを閉じる。





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