正義で息ができない

自分が今何をすべきか、人は直感的に理解していると思う。

岡本太郎の言葉を借りれば「歓喜」という人間にとって最上の「自らの生を肯定し、満ち足りている」という感覚。

それは生温い現状を惰性的に肯定する幸福という感覚とも違うし、必死になって自らの存在理由を見つけようとする闘争、という状態とも違う。

適度な緊張感の中で、自分の持てる生命力を全て使って自分を表現し、生きている全ての時間を有意義であると思える感覚。

それらを得るには、直感で理解している、「今何をすべきか」を愚直に実行していくことが唯一の正解である。

しかし人は、直感だけで行動を決めることはできない。

社会的な理屈が圧力となって人々の行動をねじ曲げる。

社会には美しい色で飾られた「正義」という仮染めの旗があり、その旗の元に集まった愚かな群衆の最後尾に加わって正義を叫ぶという、人間にとって甘美な怠惰がある。

自らの奥底から湧き上がる生命力は、色鮮やかな社会正義の旗にふんわりと覆われ、気づいた時には窒息、死に絶えている。

復活はできない。一度浸った怠惰から抜ける術を、ほとんどの人間は持ち得ないからだ。

単純な正解に飛びつく人間は社会で肯定される。

波風立てない人間はその他大勢の人間から歓迎されるからである。

歓迎は嬉しい。自分の存在を条件付きであっても肯定される。

しかしそのような条件付きの歓迎に、価値はあるのだろうか。

波風を立てない、自らの意思で行動しないということは、存在していないと同義である。

本当はわかっているはずである。目の前に転がる単純な正解が、自分にとってもっとも間違った解であることなど。

自分の生命力は単純な正解を指し示してはくれない。

それどころか常に苦くて、辛くて、複雑で、社会から排斥されかねないことを叫ぶだろう。

その度に幾度となく私たちは、正義の軍門にくだり、群衆の最後尾に並んできた。

セイギ。意味のない文字列である。そんなものが、自分の生命よりも大事だというのだろうか。



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