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図書館でふける思い

実家は見えない窮屈空間

実家には自分自身の部屋はあれども〝がらんどん〟な部屋。
テレビもなく、昔はあったソファーもなくてゆったり座る場所もなし。
居候の身としては1人のために暖房を焚いたり、電気を付けるのはもったいない気がして、ためらいます。
要らぬ気をつかう必要がないのは十分に承知なんだけども、なんとなく部屋の中は居心地が悪いような、そんな気がしてしまい。
ついついリビングでダラダラと過ごしています。

そうなると、1人で息つく時間が持てるのは外に出た時です。
とはいえ、家からまったりと出来る場所は限られていて、最近ではもっぱら図書館が癒しの空間と化しています。

子供の頃を回想すると

子供の頃、記憶の中の図書館といえば、声を発することができない。少し暗い。静かすぎる。本が少し古いし、ちょっと汚い。上級生がたむろしていて鉢合わせたら怖くて居場所がない。流行りの漫画はないし、ちょっと陰気。
そんなイメージがありました。

地元には大型の本屋さんがないので、新品の書籍を扱っている本屋さんと比較してしまっていたのかな。憧れゆえなのかも。

それでも全巻揃っていたドラえもんは何度も何度も繰り返し読んだし、自分にとって図書館はドラえもんを読むためだけにあったといっても過言ではなかったでしょう。

大人になって

大人になって改めて図書館に来ると、なんとも静かで落ち着いた空間なんだ、とひどく関心します。
ゆったり本を読むための空間づくりがされているから、なんとなく物思いにふけっても思考を邪魔するものはありません。
もちろんこんな風にnoteをゆっくりと推敲することだって叶います。

ただ、子供の頃には気づきもしなかったことは、ドラえもん以外にも山ほどの本があるのに他の本には一切興味が無かったし、奥には面白い本がたくさんあることを知らなかった。
そしてそれを知ろうともしなかったは、今更になってもったいないことだと感じました。

都会と田舎のちがい

大きな都市にある図書館は、品揃えが豊富です。とにかく大規模であり、郷土のCDやDVDを視聴するシャレたこともできます。そして、勉学に励み熱心な学生の姿にも感化されます。

一方で田舎の図書館の規模は小さく、品揃えは痒いところにはあまり手が届かず、そもそも利用している人の数が圧倒的に少ないのですが、なんとなくの安心感があります。

ここ、地元の図書館では、週末になると絵本の読み聞かせの会があり、町の中を歩いていてもほとんど見かけない子供達が、ぞろぞろと集まってきます。
そして読み聞かせの時間になると、少し小さな賑わいができます。

自分自身が子供の頃から続いている、そんな読み聞かせの会が今でも続いているのは、嬉しいことですね。
人口の減少はあれど、地域から愛されているからこそ、今日まで続いているんだと思います。職員さんもすごいです。

発達障害と向き合ってからの変化

もうこの街に産まれて三十余年。
こんなことを考える年になったんだな、自分自身の興味の持ち方も大きく変わったんだな、とも感じました。
それは〝発達障害の疑い〟と認知したから。発達障害の理解を深めたから。ということも大きいんでしょう。

自分は発達障害と向き合ってから物事を小さな視野ではなく、俯瞰で捉えることが少しでもできるように勉強してきました。
もちろん薬による治療の効果も大きいとは思いますが、まずは自分自身がどんな人間かも含めて理解しようとしてきたことも、自分自身にとって大切なことだったんでしょう。
多分、ただ単純に時間だけがあっても、こんな考えには至らなかっただろうな。

発達障害での苦しみが少しでもやわらぎ、そして以前の自分も、今の自分も、これからの自分も、変わらず自分なんだ。と、1mmでも考えられるようになったのは成果だったんですね。

余談 / 以前の記事も更新します

最近になって自身が書いた、以前の記事を見てびっくりしました。
(今もなお、つたない文章ではあるのは間違いないんですが、)
全く見るに堪えない文章のままnoteがアップされていたんです。笑
〝てにをは〟だけではなく、何が言いたいのかわからない記事もありまして。

その文章をご覧になった方、温かい目で見てくださり、本当にありがとうございます。この場を借りてお礼申し上げます。

だから、気になった記事から徐々に更新をかけたいと思います。
そのままにしていても記録として良いとは思うのですが、自分が初めてこのnoteに触れた時に、どなたかが「noteの記事は常にアップデートしていくのも」という記事を読んだことがあります。
blogのような日記でもありませんしね。

どんどん更新をかけて磨いていきます。
ぜひともご覧になってくださいね。

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