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自由へ道連れの道連れ

 他者の意志ではなく、自分の意志において決断、行動すること。「自由」の意味を問われたら、このような答えを思い浮かべるだろう。もちろん、正解だ。この「自由」という概念は、特に近代以降の私たち人類共通のスローガンだった。自由への渇望を原動力に、民主主義と呼ばれる社会体制が築かれた。近代以降の国家や社会の体制は、このスローガンを狡猾に利用して自らの繁栄を築いたという感は否めない。だが、一人一人の意志が尊重されること自体は悪いことではないだろう。ではこの「自由」とは一体、どのような概念なのだろうか。この議論に入る前提としてまず、「意識」とは何かについて考えてみたい。「意識」は、古来より多くの知識人たちの議論の的だった。哲学者の西田幾多郎はその一人で、著作『善の研究』のなかで持論を展開している。著作によれば、「意識」は「知る」と同義であって、「知るといい意識するということは即ち他の可能性を含むということである。我々が取ることを意識するということはその裏面に取らぬという可能性を含むという意味である」とされる。要するに、「意識」とは、複数の選択肢がある状態で現実として一つの選択肢を選び取っている、という状態を指すようだ。意識できることはいくらでもあるのに、特定の何かを脳裏に浮かべているのだから、間違いではないのだろう。そしてこの「選び取る」という行為はつまり取捨選択であり、何らかの価値判断が働いているはずだ。西田はその点を「理想的要素」と表現している。その上で「意識」とは、「意識の根柢たる理想」が「己自身を実現する一過程にすぎない」と述べている。この理解を前提とするならば、「選び取る」主体、「価値判断」の主体、つまり「理想」が、意識という行為の主体として存在することになる。
 以上の前提をふまえて、西田は「意識の自由」を次のように説明する。「自然の法則を破って偶然的に働くから自由であるのではない、かえって自己の自然に従うが故に自由である。理由なくして働くから自由であるのではない、能(よ)く理由を知るが故に自由であるのである」。「意識」と「知る」を同義とする前提からすれば「理由を知る」とは、適切な理由を意識できる、という意味だろう。よって、「自然に従う」とは、「理由を知る」ことで納得して自然の成り行きに身を任せる、という意味になるはずだ。これはつまり、「意識」できるという状態自体が「自由」であると述べていることになる。たとえば、あなたがアルバイト先の上司に必要以上に冷たく厳しく指導されたとする。それでも、「この人、夫婦関係がうまくいっていないから」と上司の態度の理由を知ることで、たとえ冷たく厳しい指導がなくならずに肉体的に負担がかかったとしても、理由を知っているあなたの心は「自由」だ、というわけだ。
 確かに筋は通る。だが、釈然としない点も残る。それは「意識」における「複数の選択肢から一つを選び取る」という行為をあまりに簡略化している点だ。私たちは必ずしも「一つ」の選択肢だけを脳裏に浮かべるわけではない。複数の選択肢自体が脳裏に浮かんだ上で、どれを選ぶかで葛藤することはよくある。私個人としては、この葛藤に向き合うことを、今を生きる私たちならではの「自由」として定義したい。私たちは、近代が生んだ「二項対立」や「二者択一」という単純化された構図に慣らされきっている。まずはそこからの自由が大切だ。そのためのキーワードが、葛藤に耐えることだと考えている。私が敬愛する歌手椎名林檎は、『自由へ道連れ』という歌の中で、「混沌と秩序」「破壊と建設」「子供と大人」「気分と合理」「男と女」という様々な二項対立を挙げた上で、「相反する二つを結べ 自由はここさ 本当の世界のまん中」だと述べる。現代においては、世の中が突きつける二項対立的図式をいかに乗り越えるかが喫緊の課題である。経済発展と環境保護、グローバルとローカル、公と私、仕事と恋愛…。挙げていけばきりがないが、これらに対して特定の選択肢を選び取るという対処は、その図式の上で踊らされている事実には変わりはない。いらく理由が分かっていたとしても、そんなものを自由とは呼びたくない。対立する、相反すると思わせられている選択肢たちを結びつけ、一つにしたり、別の選択肢にしたり、と様々な工夫をすること。ひどく根気のいることで、決して簡単なことではない。それでも、その時代にふさわしい生き方、考え方があるはずだ。「相反する二つを結べ」。これこそが私たちの「自由」ではないのだろうか。よかったら、みなさんも道連れてはいかがだろうか。

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