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相手の立場に立つ――小論と面接の懸念

相手の立場に立つ――。
こんなに難しいことがあるだろうか。どうやったらできるのだろうか。答えなどないのかもしれない。ただ、暫定的でも何かをつかんでおきたい。そのために、少々言葉にしておく。

職業柄、小論文や面接の対策をすることが多い。どちらにしても、受験生の答えの中に散見されるのが、この「相手の立場に立つ」だ。
多くの小論文では、何らかの現代的な課題について、自分なりの解決策を要求してくる。その解決策は、「自分とは立場や考え方が異なる存在」、つまりは「他者」との「つながり」をいかに形成するか、が重要なポイントになることが多い。もちろん、提示された話題に応じて、どんな「他者」なのか、どんな「つながり」が必要なのかは千差万別だ。しかし、「他者」との「つながり」を要求されることは普遍的だし、それを実現するために「相手の立場に立つ」ことが必要不可欠であることも明白だ。受験生もそれは分かっている。よって、「異文化理解」や「他者理解」を解決策に掲げ、「そのためには、相手の立場に立つことが必要だ」と述べてくれる。正解だ。
面接でも、同様。大学やその後の社会において、「他者」との「つながり」は重要であり、大学側は、これを良好に構築できる人間を求めている。そのため、受験生は、この能力があることをアピールすることが不可欠だ。したがって、「私は、相手の立場に立つことが出来ます」ということは面接においての「模範解答」の一つだといえる。そりゃあ、大学教授だって、これができない学生よりはできる学生の方を好むだろう。
これらは、「相手に好まれるような自分を提示する」ことが求められる小論文や面接という試験の性質上、当然だといえる。私が懸念というか、漠然とした不安を感じているのは、多くの受験生が「相手の立場に立つ」をより具体的に説明できない、ということだ。小論文も面接も、試験である以上「他人に勝つ」ことが必要だ。だから、他の誰もが言える「相手の立場に立つ」というフレーズだけでは不足なのだ。この漠然とした言葉をどのように分析し、どのように実践しているか、という点まで深掘りすることで初めて、「他人との違い」を演出できるようになる。このような試験対策の不備という懸念はもちろんある。ただ、これは試験対策を行う側が気を付ければよいことではある。重点指導項目だと考えればいいのだ。
私が漠然とした不安を感じているのは、このフレーズが「金科玉条」になっていないか、水戸黄門の「印籠」になっていないか、ということだ。別に、小論文や面接という場でなければ、明確な言語化は不要だろう。意識的でなくても、「相手の立場に立とう」と考えて、なんとなく言葉を掛け、行動をする、そんなこともあるはずだ。それはそれで全く問題ない。ただ、どうしたら「相手の立場に立てるのだろう」とか、今の発言は「相手の立場に立てていただろうか」とか。そんな振り返りが行われているのだろうか、という不安がある。自分としては「相手の立場に立った」言動だった。私はいつも「相手の立場に立って」行動している。そんなフレーズが、それ以上の思考に蓋をしているのではないか。その結果が、小論文や面接での「相手の立場に立つ」の氾濫、なのではないかと危惧している。このフレーズの具体化を求めても、的確なものが返ってくることは少ない。悪く言えば、手っ取り早い「正解」を見つけて、そこに「安住」している、そんな風に感じられてしまう。
これは何も、彼らに原因があるわけではない。大学入試というシステム、そこに至る教育の過程が、手っ取り早い「正解」を見つけて余計なことを考えないことでスムーズに階段が登れるように設計されている。だから、受験生たちはうまく「適応」しているともいえる。ただ、それでも、小論文や面接という試験形態は、このシステムに風穴を開けることができると考えている。だから、私としてはこの試験形態に希望を感じている。多くの大学が受験生の「人柄」「意欲」「思考力」を見ようとして小論文や面接試験を課しているのは正解だと思う。だから、チャンスなのだ。みんなに安易な「正解」に「安住」せずに、より「意欲」を持って「思考」して「人柄」を磨いてもらうための。

だからこそ、私は「相手の立場に立つ」ことがどういうことなのかを考えなければならない。受験生と向き合う講師として。「相手の立場に立つ」ことを実践したい一人の人間として。
ある本によれば「自分でも、相手でもない、普遍的な立場に立つ」ことが重要なのだそうだ。それは、ジェンダー論で平行線の議論が続いている現状を打開するための解決策として述べられていたように記憶している。ただ、「普遍的な立場に立つ」という言葉は、矛盾してないだろうか。「立場に立つ」とは、特定の立ち位置や視点が存在することが前提とされている。そこに、「いつの時代の、どこの、誰にでも通用する」という意味の「普遍的」をつけてしまう。すると、「普遍」でかつ「特定」ということになる。どういう状態なのかよく分からない。少なくとも、私には実践不可能だ。だからこれは、「第三者の立場に立つ」という意味だと考えた方がいいのだろう。そして、この「第三者」は、「私」と「あなた」以外の全ての人間を含む、それこそ「普遍的な」存在ではなく、「私」と「あなた」以外の特定の誰か、のことだろう。ただし、考えたい話題について、全くの無関係、無関心な人は、「立場」が成立しないから不向きだ。そして、その「人」は、日常での様々な相手との関わりにおいて、「第三者的な立場」に立ってくれる必要がある。そんな仲良しの暇人がどこにいるのだろうか。
もう一人の「私」――。こういう答えにしかならないだろう。結局、その「第三者」は自分の頭の中にいるのだから。でないと相談しにくい。だから、自分の頭の中に「第三者」として相談に乗ってくれる「もう一人の私」を設ける。こういうことになるのだろう。ただし、この「もう一人の私」は、「私」とは違う立場である必要がある。これが難しいところだ。自分の中に別の人格を作る、ということになる。自分の人格が首尾一貫したものだと思い込まされている私たちとしては、困難かもしれない。ただ、インターネット上で様々なアカウントを駆使して複数の自己を並列させている若者ならば、想像しやすいかもしれない。ただ、「私の一部」というよりは、「第三者としての私」という人格が必要なので、これは意図的に構築しないと難しいかもしれないが。
この「第三者としての私」を構築する上で大切なのが、「他者の価値観の内面化」だと思っている。もちろん、権威主義的に特定の他者の価値観をそのまま受け入れるという安易な「正解」は、ご法度だ。「私」として、好ましいと考える価値観を抽出して、自分のものとして内面化する。様々な事象に触れて、琴線に触れた色々な人や存在からつまみ食いすればいい。すると、自分なりの「好ましいヤツ」が出来上がっていく。そして、何かにつけて、「ヤツ」は、「私」の言動をどう思うだろうか、「あなた」の言動をどう思うだろうか、と考えてみる。今までの「自分だけの世界」や「自分と相手だけの世界」から抜け出すきかっけは得られるのではないだろうか。「相手の立場に立つ」には、このような相談ができる「好ましいヤツ」を自分の中に持つこと、様々な事象に触れて頭と心を揺り動かして「ヤツ」の人格に磨きをかけること、そして、「ヤツ」と様々に相談や議論を繰り返すこと。これらを人生をかけてやり続けることが必要なのではないだろうか。そうすると、いざという時に「ヤツ」が「私」に語り掛けてくれる。それは単なる常識や理性とは違う。そんな一般論とはかけ離れた、あなたを本気で見据えた上での貴重な意見をくれる。

最近、太宰治の「パンドラの匣」を読んだ。備忘録として、少し引用させてもらう。
「献身とは、ただ、やたらに絶望的な感傷でわが身を殺す事では決してない。大違いである。献身とは、わが身を、最も華やかに永遠に生かす事である。人間は、この純粋の献身に依ってのみ不滅である。しかし献身には、何の身支度も要らない。今日ただいま、このままの姿で、いっさいを捧げたてまつるべきである。」
早速、私の「好ましいヤツ」の価値観に「献身」が加わった。この文章を書いている今としては、「わが身を、最も華やかに永遠に生かす事」とは、「ヤツ」の人格に磨きをかけることではないか、と考えている。この考えはいかに。すぐに「ヤツ」と議論してみよう。何て言ってくれるかな。

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