実像と虚像、そして情報の廃棄力 ~安倍元首相襲撃事件から思ったこと。

一国を背負った首相経験者があんなにも脆く命を奪われてしまったことに大きなショックを隠せません。

ただただ今は静かにご冥福を祈るばかりです。


今回の事件についての解明はこれからなので、背景が明確になってくれば様々な要因が浮かんでくるでしょう。

それを待たずに言うのは憶測でしかありませんが、今の時点で一つ感じたことがったので今日は書き記しておこうと思います。

それは、犯人が安倍元首相に対してどんな「像」を浮かべていたか、ということです。

おそらく一度たりとも直接または誰かを介してでもかかわったことがないはずで、つまり殺人の衝動が「間接的なイメージ」だけで作られていった可能性が高いと思われます。

その安倍さんの「像」を構成していたものは何か。

そのほとんどがさまざまなメディアのはず。

著名人といわれる人はあくまでもメディアを通してのイメージでであり、その人の「実像」そのものに触れる機会はまずありません。

この時私たちは「偶像=尊敬の対象、あるいは良いイメージ」として受け入れるのか、「虚像=虚しい対象、あるいは悪いイメージ」として受け入れていくのか構築を頭の中ではじめます。

どんな人でも人間である以上善良はあるものもので、本来なら、というか直接お会いしたりすると案外その両方を理解でき、同時に受け入れることができるものです。100%ではないにしろ実像として接した場合好き嫌いくらいはあってもいきなり憎しみを抱くことはまずありません。

犯人はどのような形かはわかりませんが、「虚像」の部分が自分の中で増大しそれがマックスになり、まるで目の前の実像のような認識にまで達した瞬間あの一連の行動に出てしまったのでしょう。


この時代メディアは多岐にわたり、編集の効くもの効かないものがある以上それらの情報を重ね合わせていったら、多くの人が簡単に「虚像」を抱いてしまう可能性が広まってしまった、そんな気がしてなりません。

いろいろな検証で分かると思いますが、この犯人がどのようなものに接して、殺傷してしまうほどの「像」を構築してしまったのか、そこがとても気になります。

つまり、今回のような衝動の因子たちは私たちの周囲に普通に存在し、時代に発展とともに目まぐるしく増えているはず。

これは止められないです。事実私がこうやって思ったことを簡単に発信し、少なくとも世の中のそれなりの数の方に届けてしまうことができるのもその一つといってもいいでしょう。


情報を選別する力。それがあったらいいとは思いますけど、実はとても難しい。おそらくそれをコントロールするものが理性なのでしょうが、人間誰だっていついかなる時も正しくいられるものではありません。

なので、情報をいったん受け入れるがそののち気楽に捨ててしまう、この「情報の廃棄力」を身に着けてみるほうが簡単なのではないでしょうか。そのベースになるのがリラクゼーション。リラックスさえすれば戯言のようなものはどんどん捨てていけます。

ストレスや負荷によって、キャパシティが狭くなり、情報が頭にこびりついてしまうことで、それが「虚」を生み、そののち虚実が判別できなくなり、抑えられぬ行動に達してしまう、この流れが今回のようなことの背景にあるのではないでしょうか。

できるだけリラックスし、情報を貯めこまない、そして不要な情報を捨て去る、座禅や瞑想はそれを突き詰めたアクションのような気がします

仏教でいうところの「無我」。この境地に達することはとても難しいことではありますが、日常の中でできうる限りいらぬ情報を廃棄していく、情報の断捨離をしてみる、このようにして今の情報社会に飲み込まれないようにしていくことがとても大切ではないか、今回の事件を通してそのようなことを頭に浮かべました。


朝、一杯のコップの冷たい水を飲み、リラックスを心身に施す。こんな瞬間にも無我があります。

要らない情報を、身体にこびりついた垢を流すように、できるだけ捨て去ってしまいましょう。

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