嫌いな「写真」を好きになるまで
私は写真が苦手だった。今も本音を言えば、あまり得意ではない。文章なら後から修正できるが、写真は一瞬を逃すとおしまいであり、その緊張感に滅入ってしまうこともしばしばだ(どんなに弱いんだ、私)。
これは新聞社時代のトラウマが大きい。入社した当時はフィルムとデジタルを併用していた頃で、写真部出身の上司はデジタルが好きじゃなかったらしく、「写真はフィルムだろ」と常々言っていた。だから、しばらくは支局のカメラもフィルムオンリーだったのだが、現像するまで出来が分からないという不要なスリルは、新人にはただただ重荷だった。
とくにスポーツの取材は、生きた心地がしない。例えば、高校野球の地方大会。他社の同期は超高額のデジタル一眼レフを手に入れ、投手が投げるごとに撮影し、確認し、保存か破棄かを決めていた。一方の私は、とりあえずシャッターを切りまくって(ただ使えるフィルムの量には暗黙の制限がある)、どうにか使える写真があることを現像機の前で手を合わせて祈るという状態だった。
さらに難易度が高いのはバレーボールの取材だ。アタッカーが打つ瞬間の手とボールをブレずにとらえる必要があり、バレー取材の前日は、頭が痛くて眠れないほどだった。
大嫌いだった写真への意識が変わり始めたのは、地方支局から本社に来た頃だ。本社には専門のカメラマンがいて、私が取材の主旨を説明すると、ベストな立ち位置で、ベストな写真を撮ってくれる。その様子を見ているうちに、写真も文章と同じだと思うようになった。
決められた文字数でいかに表現するかと、長方形の中にどれだけ情報を詰め込めるかは、よく似ている。
例えば、山村での風景撮影。青い空、白い雲、新緑の山々、古い民家、田んぼのあぜ道、あぜ道を歩く人、その傍で咲く花――が目に入ったとして、何を一番伝えたいのかを考え、その対象をメインに必要な要素を長方形の中に入れていく。全部入らないのであれば、いらない要素から削っていく。
私は文章を書くとき、800字の原稿であれば、まず1200字ほど書いて、そこから不要な部分を消す手法をとるが、写真も同じように考えることで、少しずつだが面白くなってきた。雲の範囲はこの程度にして、山の稜線を入れようとか、民家は絶対だとか。そんなふうに。
新人の私に教えてあげたいが、きっと理解できないだろう。あの頃は「過去に掲載された写真」がお手本で、そのように撮ることばかりを目指していたから、自分が何を撮りたいのかなんて考える余裕はなかった。
結局は失敗して、学んで、実践して、自信にしていくしかないのだ。