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栗城史多さんについて

昨日のこの時間まで、この方のことは知らなかった。栗城史多さん。読み方すら分からない。ただ、ヤフーの号外でエベレストで亡くなったとの一報が入り、著名な登山家であったのだろうと、まずは自分の無知を恥じた。

しかし、その後見聞きした彼にまつわる情報は、「無謀」「嘘つき」「下山家」といった不名誉なものが大半を占めた。2chレベルの中傷だけでなく、登山の専門家もそれに近いことを指摘している。

ご冥福をお祈りすべき場面で、ここまで批判される人も珍しい。この日の登頂がインターネットテレビで生中継されるとの話だったが、それだけでこんなひどい言葉が躍るのか。何があったのか、この人は何をしたのか。

しばらくして、インターネットやテレビを通して、彼の登山スタイルを知ることができた。確かに、不思議なことをされている。私には、登山本を数冊読んだ程度の知識しかないが、「単独無酸素」と言いながらロープを使ったり、生駒山(標高642m)に行くようなラフな格好で登ったり。また登山風景をネット中継するというスタイルは斬新だが、山に集中しなくて良いのかと心配になる。

日本を代表する登山家、山野井泰史さんは、ベースキャンプを出た後、一気に登る「アルパインスタイル」を採るが、栗城さんの登り方を見ると、集団で徐々に登る(大学登山部などが採る)「極地法」とみられ、孤高の登山家、夢追う岳人というイメージとも少し違う。

しかし、だからと言って栗城さんを批判する気にはなれない。なぜなら、私は栗城さんではないからだ。

ヒマラヤ級の登山には莫大な資金がかかるため、あの山野井さんでも資金集めに苦労していたことは、沢木耕太郎著『凍』の中で描かれている。一方、栗城さんは、若く素敵なルックスが奏功したのか、名だたるスポンサーが付いており、彼に対する批判には、それに対する嫉妬もあると思う。

「登山家でなく下山家」。国家試験といった明確な基準のない職業界隈では、往々にしてこうしたことが言われる。「○○さんが作家なんて」「あの実力でライターとかよく言うわ」といった妬みに満ちた批判は、私の周りでもよく聞く。

でも、私はその度に別にいいじゃないと思う。肩書きは自分そのものだ。ちょっと背伸びしようが、慎重に語ろうが、それは自分の生きざまであって、他人にとやかく言われることではない。

「実力のない人が○○を名乗ると、業界レベルが下がる」といった意見もあるが、実力のなさを一番知っているのは自分だから。彼や彼女は苦しみながら、背伸びをしているのだから、そっと見守ってあげればいい。

栗城さんの登山計画が、実力以上のものだったのかどうかは分からないけれど、低体温症とされる死因を考えると、期間中、じわじわと体に弊害が出ていたのではないかと思う。彼をそこまで我慢させたものは何だったのか。エベレストでの最期を幸せだと思えたのだろうか。

※栗城さんの死因については後日、栗城さんのFacebookにて、「転落死」に訂正されました(2018年5月27日追記)。

#栗城史多 #エベレスト #登山家 #山野井泰史