「対岸の火事」から「他山の石」「自分事」へ

「対岸の火事」とは、ご存知の通り、川や湖を隔てた向こう岸で起きている火事で、「自分たちには被害が及ばないから大丈夫、心配する必要はない、自分には影響がない、関係ない」という意味があります。無関心だけでなく、冷たさすら感じられる諺にも聞こえます。「高みの見物」と似ていますが、これには、他人の不幸を興味本位で眺める、楽しむニュアンスさえありますね。「人間の性(サガ)」を示す先言のようでもあります。

今回の新型コロナウイルス流行では、この「人間の性」が日本国内のみならず、世界的に見えます。これまで「対岸の火事」で他人や他国を評論・批評していた人・国が、自分のところに火が回ってきて逆に評論・批評される立場になるケース、ああだ、こうだと人や政府を批判してきたが、それが必ずしも正しいものではないことが判明し、逆に非難される人々、「専門家」と呼ばれる人もいるようです。(私は第一級の専門家ではないですが、同様に気をつけないといけないと思っています)

私はこれまで「発展途上国」で働いてきて、感染症を含め、多くの問題がそこで起こっていても、先進国の人々にとっては、「対岸の火事」しか見えず、「高みの見物」ならまだしも、「見物する価値もない」と考えている人も少なくないと感じました。「対岸の火事」をしっかり見つめ、その消火に協力しようという政治家も役人も企業も個人もいます。でも、とても少ない。

対岸で起こっている、また新たに発生する「感染症」は飛び火してくることを想定して、対岸で火事が発生したら、また発生していたら、その消火活動、予防活動に協力することの必要性、そこから学ぶことの重要性を知り、行動に移す時だと思います。

「対岸の火事」ではなく、「他山の石」、他人の失敗や教訓を自分の成長や修養につなげる、他国の危機にも関心を持ち、そこから学び、「自分事」として考え行動することが重要だと思います。

今回、それぞれの国が自分の国のことで精一杯で、他国を援助しよう、支援しようという協力・支援があまり働いていないのも「人間の性」なのでしょうか。できるだけ、自分の国、自分の都道府県、自分の市町村では起こってほしくない。でも、他の国、都道府県、市町村、会社・店・組織のことは心配している暇や余裕はない。

ただ、そんな中でも、いろいろ「ほっこり」したことも起こっていますね。経営が苦しくなっているレストラン、商店などへの応援・支援、学校閉鎖の子供・生徒たちへの学習支援、本やマンガなどの無料提供など、こんな苦しい時だからこそ、社会のために知恵を出し、協力・支援しようとの動きもあることは希望です。

ちょっとしたことですが、スイスでは今日、新型コロナと闘っている当事者や医療従事者、その他の人々に対する応援のため、夜の9時にアパートのベランダや家の庭に出て、拍手をしたり、花火を上げたり、クラクションを鳴らしたり(通常は音にうるさいスイスではご法度ですが)するイベントがありました。たった1-2分のことですが、みんなで力を合わせてこの危機を乗り切ろうとの気持ちはつながってるなあ、と感じました。おそらく、世界全体(大多数の国)が「共通の危機」を感じて、実際に似たような「多大な影響」を被り、それに対する「果敢な行動」をほぼ同時にとっているというのはこれまでなかったことではないでしょうか。

「新型コロナウイルスのパンデミック」は「共通の危機」ですが、「唯一の危機」ではありません。ニューズウィーク日本版(3月17日号)に書いた通り、感染症の中には感染者数、死亡者数、致死率などの数字をみれば、新型コロナ以上の感染症はたくさんあり、また、今後も新たな新興感染症が出現する可能性は大いにあります。

しかし世界には、大気汚染、水質汚染、地球温暖化など、多くの危機が存在しながら、国際社会は未だに本気で「共通の危機」と考え、「本気で行動」しているようには見えません。

新型コロナの感染拡大が収束、または終息すれば、おそらく、いつもの通り喉元過ぎて熱さを忘れてしまうのでしょう。だからこそ、今、このCOVID-19流行をどう乗り切るか、を考え行動すると共に、「見えていないが、確実に存在し、今後増強するかもしれない敵」に対して、どう対処していくのか、を真剣に考え、準備する時かもしれません。

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