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永井均『倫理とは何か』をめぐる試論

あなたが電車の中で座っていると老人を見かける。あなたは座っていたいのだが、老人に席を譲る。

これは道徳的な(道徳的によい)行動である。あなたは座っていたかったのに座るのを断念して席を譲った。だから道徳的な行動は、自分にとって快適な行動(座っていること)を断念して不快な行動(立っていること)を採ることで可能になるのだ。

なぜそんなことが可能なのか。それを論じたのが、永井均『倫理とは何か』である。

ひとつの回答は次のようなものである。

1.もし誰かが道徳的な行動をすれば、その人は周りに称賛され、好意的に扱われるようになる。人間は自己利益を追求しているから、道徳的な行動はそのような好意的な扱いを(無意識のうちにせよ)期待してなされる。さもなければ、つまり快適な行動をやめて不快な行動をすることが周囲から称賛されないなら、そのような行動は単に自分にとって不合理な行動になり、合理的に行動しようとするかぎり、実行できないはずである。

別の回答は次のようなものだ。

2.老人が席を譲ってもらえる社会と、譲ってもらえない社会では前者の方が誰にとっても望ましい。なぜなら、そのような社会では自分も老いたら席を譲ってもらえるからだ。それゆえ、そのような社会を作るためには若いうちに自分が席を譲っておいた方がよい。

この2つの回答は、道徳的行動は自己利益のためになされると考える点で共通している。1は利益の内容を「周りに称賛されたり有利に扱ってもらえたりすること」、2は「将来譲ってもらえる可能性があること」と考えているが、利己心に基づいている点は同じだ。

ところで、子供が「ほめられたいのでお年寄りに席を譲った」と言ったら、親や教師はいい顔はしないだろう。そういう利己心を捨てて無私の心で道徳的にふるまうことが大事だ、と言うに違いない。しかし、そんなことが可能なのだろうか。

ソクラテスやプラトンは「可能だ」と言いたいように思われる。彼らの考えでは道徳的な行動はやると自己利益をうまく実現できるからやるのではなく、やること自体が幸福なのである。そう信じろ、と彼らは言う。

だが、そうだとすれば再び「道徳的な行動をやること自体が幸福だという、その幸福を味わうために道徳的にふるまうのだ」と反論できることになる。本書を読む限り、ソクラテスやプラトンがその反論にうまく答えているとは思えない。

『倫理とは何か』は、「なぜ悪いことをしてはならないのか」という疑問を抱く読者に向けて書かれている。昔「キレる少年」が社会問題になったとき、一人の少年が「なぜ人を殺してはならないのか」と問い大人を狼狽させたことがあった。「そのような問いを発すること自体、恥ずべきことだ」と言った大人もいる。大人たちはその問いを「人を殺してよいはずだ」という主張を擁護するための修辞だと考えたのであろう。しかし単純な疑問である可能性もあり、その場合、問いはまったくもっともなものだと思う。

思うに道徳とは「自分を他人と同じ人間のひとりだと扱え」という要求であり、それを実現させるシステムである。そもそも人間は他人の快楽や苦痛を経験することがない。今たまたま経験しないのではなく、確実に一生経験しない。だから他人が電車の中で立って苦痛を感じても知ったことではなく、自分が快適かどうかだけが重要なはずである。しかし道徳はそれを許さない。老人が電車の中で立つことで感じる苦痛を自分が感じているかのように扱え、と要求する。老人が感じる苦痛が自分のもののように感じるなら、たしかに老人の苦痛を除去すべき理由がある。しかしそれはやはり無理である。「自分の快楽や苦痛だけが問題である」という本来の状態を無理やりねじまげて、社会に都合のいい状態を作っているだけだからだ。道徳は有益ではあるが、無理でもある。

本書でも触れられているが、行動するときにそれが道徳的によいことかどうか気にするだろうか。金がないので、返すあてはないが借金をしようと考えているとしよう。そのとき考えるのは借金を踏み倒せる見込みがどれくらいあるかとか、踏み倒したら周りに非難されて次の借金ができなくなるため結局は不利になるのではないかとかいうことで、踏み倒すことが道徳的によいかどうかは当人にとってどうでもよいのではないか。人間が概して道徳的に振る舞うのは道徳的に振る舞わなかった際にペナルティがあるからでしかない。そしてペナルティが機能していれば社会はうまく回っているのである。そうだとすれば、道徳は人間の内面を拘束するものではなく、行動を規制するものだということになろう。

そう考えるなら、そして人間が利己的に行動するものなら、道徳的に悪い行動をしても非難されないしペナルティもないときは不道徳な行動もしてよいことになる。というより、不道徳な行動(たとえば、老人がいても席を譲らない)は自分にとって快適な行動なのだから、ペナルティがないか小さい限り、必ず実行すべきだということになる。あとは、ペナルティの有無や大小を見分けられる賢さがあるかどうかだけが問題である。

もちろん、親や教師が熱心に道徳を説くので普通の人は道徳を内面化している。いわゆる良心の呵責である。他人からいっさい非難されなくても、悪いことをしたと思えば苦しむことがありうる。しかしそれもペナルティの一つだと考えればいいのではないか。良心の呵責による苦痛が不道徳なことをして得られる快楽を上回るなら、道徳に従えばよい。なぜなら、それが利己的な動機からいって合理的だからである。

誰でも自分以外の人間は道徳的に振る舞ってくれないと困るので、「もっと道徳的に振る舞え」と言ったり、道徳的に振る舞わない人を非難したりする。しかし、その非難も「他人が道徳的に振る舞うほうが自分にとって利益が大きい」という利己的な動機でなされている。そして誰にとっても「自分は不道徳に利益を追求し、他人は道徳に従う」ことがもっとも望ましい状態のはずである。そうなれば自分だけはルールを無視できるが他人はルールを守らなければならないゲームのように圧倒的に自分に有利になるからだ。

そもそもなぜ道徳は利己心に基づいていてはだめだと言う人間がいるのだろう。他人がいかなる動機で行動しようがどうでもよいのではないか。他人の行動が社会の幸福を増やせば十分であるように思える。にもかかわらずソクラテスやプラトンが「道徳は利己的な欲求を満たす手段であってはならない」と考えるのはいったいなぜなのか。

たしかに「道徳的だが幸福は増やさない」という行動はありうるように思える。たとえば電車内で席を譲ったら、譲られた相手は座りたいと思っていなかったので、譲られても幸福を感じなかったとする。それでも席を譲るのは道徳的によい行動だと見なすことは可能であろう。

だが、それは「一般的に言って、席を譲らないより譲る方が幸福を増やす。それゆえ、たまたま相手が座りたくないと思っていたとしても譲るのはよいことだ」という形で説明できるので、功利主義的に見ても説明に窮することはない。また、一般的に道徳的によいことをしたなら、たまたまそのとき幸福を増やさなくても称賛してもらえる可能性はあり、自己利益も満たせる。

おそらく、道徳が完全に功利主義原理や利己心に還元できないと考える理由は次のようなものではないか。

もし道徳が幸福を増やすことに尽きるなら、それは「たくさん金を稼ぎ周囲のために使う」とか「腕力が強くて周囲の人を守ることができる」といった、いわゆる有能さと区別できなくなる。しかし道徳は有能さとは異なる何かであるはずだ。道徳が本人の有能さに完全に依存するなら、たとえば他人を助けたい気持ちがものすごくあるがその能力がない人間は道徳的でないということになるが、それはおかしい。言い換えれば、道徳がもっぱら行動を規制するもので内面を規制するものでないなら、道徳心という概念は維持できないことになってしまう。

ところで最近、会話ができるAIが話題である。使ってみて驚くのは、全くのでたらめでもものすごく自信がありそうに言うことである(AIにはそもそも自信という概念がないであろうが)。


たぶんでたらめだと思う

本書で少し触れられているが、人間はなぜ「自信なさげに」振る舞うのだろうか。嘘をつくとき完全に自信たっぷりに振る舞えたら他人を騙しやすいはずであり、生存や繁殖に有利に思える。ではなぜ全ての人間にその機能が搭載されていないのか。

人間が自信なさげに振る舞うとき、「この情報の正確性には疑問がある」というメタ・メッセージを送っている。すると相手は「本当か? よく調べた方がいい」と考え、より正確な情報にアクセスできる。一方、どんなときも自信たっぷりに振る舞う人間は「そいつが正確なことを言っているか判断しづらい」ため、周囲の人間が真実にたどりつくコストを高めてしまう。そのため、自信がないときに自信なさげに振る舞う人間の方が重宝され生き延びてきたとは考えられないだろうか。そして、そのような人間を重宝するのと同じ発想で、正直や誠実や倫理が重宝されるのではないか。

いわゆるトロッコ問題などの場合、道徳的によいことをしたいのは前提で、問題は「Aという行動とBという行動、どちらが道徳的によいことか」に設定されている。しかし『倫理とは何か』は、「どちらが道徳的によいことであるかが分かっていたらそちらをしなければならないのか」「そもそもなぜよいことをする必要があるのか」を問う点で、私のような人間にとっては興味深い本であり続けている。

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