許さざる者、許されざる者

※パワハラの体験談が掲載されています。そういうものを読みたくない人は読まないでください。


質問サイトのask.fmというのがある。そこにこんな質問が来ていた。公式から一律に送られる質問だった気がする。


「人は罪を許すべき?それはなぜ?」


このように回答した。


「許さなくてよい、というのが大前提だと思います。憎んで憎んで憎み続けて生涯をすごしてもいい。すでに苦しんでいる人に「許さないのはだめだ」と言うのは、その人をさらに苦しめることになると思うんです。許しても大丈夫だ、と本人が思うなら許してもいいし、「許したつもりだったけどやっぱり許せない」と思ってもいいです。」


私の言いたいことはほぼこれに尽きているが、もう少し喋りたくなったのでこのnoteを書いている。


世間には「許せ」というメッセージがあふれている。子供のころから「お友達があなたに謝ったら、許してあげましょう、そうしたらまた友達になれます」と言われて育った。大人になってからは「許さなければ自分自身を苦しめることになるだけだ」という言説を聞くことが増えた。何かを経験して怒りや恨みに囚われればその出来事から前に進むことができなくなり、新しい楽しみを見つけることができなくなってしまう。だから許すのは自分の人生のためだというのだ。


それなりに筋は通っていると思う。「自分自身のために怒りを手放す(許す)べきだ」というのは優しさから発した声なのだろうというのもわかる。


だが、どうしても納得することができない。


私自身の話をする。私は最初に入った会社でパワハラを受けた。と思う。今でもあれがパワハラだったのか、面白半分のいじめだったのか、それともごく当然の叱責だったのかわからない。おそらく一番近いものは退職勧奨であろうと思う。当時の私は新人ではっきり言って仕事ができなかったし、それを叱責するところから始まって、「解雇するのは法律的に難しいから、ちょっと嫌がらせをして辞めてくれるならありがたい」という発想だったとしても驚くにはあたらない。


今から考えるとすごい会社だった。たとえばタイムカードがない。従業員が何時から何時まで働いているのか正確に把握している人間が誰もいない。その調子だから残業代も支払われないし、休日出勤手当も出ない。幹部は勝手に外出して、どこに行くとも何時に戻るとも言わない。だからその人宛てに電話がかかってきて内線をつなごうとして初めてその幹部が会社にいないことに私が気づく。「どこほっつき歩いているのかわかりません。何時に戻るかもわかりません」と答えるわけにはいかないから適当にごまかした。それでも社内では誰もその幹部のやることをおかしいとは思わない。


それでも幹部層は「社長や幹部は人間通で、篠田(本稿の筆者)は人間の気持ちが分からない」と思っているのだった。仕事が終わった後何時間も酒を飲みながら人格を否定され続ける毎日で、「人間として欠けている」とか「頭でっかちだ」とか言われる中で私は少しずつおかしくなっていった。社長は典型的な学歴コンプレックスで、大学を出ていない自分がいかに現場で人間の心理に通じているかを語り、それに比べてお前は大学を出ているくせに、と繰り返し私を罵倒した。直属の上司のミスはすべて私のせいになった。ミスは時々するにせよ直属の上司は有能な人で、社長はその人が退職することを恐れていたのではないかと思う。そのためには、不都合なことは私のせいにしておけばよかったのだ。


よくあることかもしれないけれど。


私は朝になるたびにうめきながらシャワーを浴び、神様がいるなら一秒でも早く自分を殺してくれるように祈った。何も起こらなかった。通勤途中の電車に飛び込もうにも、当時私は会社のそばに住んでいて徒歩で通勤していたからそれはできなかった。道路を渡るときには、赤信号で車に跳ねられたら今日は会社に行かなくていいのだと本気で思ったし、実際に足を踏み出したことも何度もある。コンビニで万引きをして逮捕されたら退職できるのではないかと思ったこともある。それでもどうしても死ぬことができず(万引きもせず)、「今日は体調が悪いな」と思いながら職場で薬を何錠も飲むなどということをやった。意識を失って職場で倒れたらどんなに楽だろうと思ったが、どんなに苦しんでもそういうことにはならなかった。自分の体が恨めしかった。ひとりで残業中に「だめだ」と思って床で寝て、数時間後に目が覚めてそれから職場の鍵を閉めて帰宅したこともある。


狭い業界に勤めていた。私は将来的にもその業界で働きたかったから、社長が同業者に自分の悪い評判をしゃべって回って業界を追われるようなことは嫌だった。そのためには何としても円満退職をする必要がある(と、当時の私は思った)。どんなことをしても悪意に取られて罵倒される毎日だったから退職を申し出るのは怖くて怖くて体が震えて、言い出すことができないまま何日も何ヵ月も経った。でもこのままでは本当に死ぬと思ってとうとう申し出た。社長は言った。


「後輩が育っていないのに辞めるのは非常識で無責任である。今度入った後輩をきちんと育て上げてから辞めるように。お前はそんなこともわからないのか、だから人間としてダメだというのだ」。


「辞めるといっても、今すぐではないんだよな!?」という声が今でも耳に残っている。それに「はい」と答えてしまった自分の弱さと愚かさを今でも悔いている。そうして辞められなくなって、ますます私は壊れていった。


無限とも思える時間が過ぎて、後輩が多少仕事を覚えてくれて、私はなんとかその会社を「円満に」辞めることができた。「退職前に有給消化をしないなら円満退職にしてやるよ」と言われたのも覚えている。


会社を辞めても苦しみは終わるわけではなかった。眠るたびに在職当時の夢を見てうなされた。眠りが浅くなって、首をぶんぶん振りながら自分がうなされていることがぼんやりとわかる。わけもなく怖ろしくて失業保険の手続きをすることができない。そのほか、およそ事務処理能力と思えるものは全て失った。健康を害し、精神の安定を失い、人生はコントロール可能だという信頼もなくした。「常識」や「円満退職」にこだわって自分の人生を救い出してやらなかったことを絶え間なく後悔した。弁護士に相談することも、もっと極端に言えば退職届を郵送してそのまま会社に行かないこともできたはずではないのかと思った。


よくあることかもしれないけれど。私が悪かったのかもしれないけれど。


私が色々な点で未熟で愚かだったのもわかる。仕事ができればこんなことにはならなかった、というただそれだけの話かもしれない。世渡りが下手なのは罪かもしれない。それでも私は当時の社長と幹部を許すことができない。


社長と幹部が苦しんで苦しんで死ねばいいと思うし、実際に復讐することができたらどんなにいいだろうとも思う。でも日本の法律が彼らをしっかりと守っていて、復讐は禁じられている。神も彼らを裁かない。私が彼らを殺せば、私は逮捕されて殺人者として裁かれることになるはずだ。それもできなかった。第一、一度殺してしまえば二度と彼らを殺せないのだ。「いつか彼らが苦しんで死ぬ日が来る」ことを希望とした方がよいのではあるまいか。


何年も経って、私は別の業界で働くことになった。あれほど命をかけてしがみついた業界に結局私は留まることができなかったのだ。当時の社長が悪評を流したからではなくて、何のことはない、私の健康と能力の低さがそれを許さなかったということだ。今はうなされることもなくなったけれど、社長と幹部の苦しみを祈るたびに記憶が蘇って彼らが夢に出てくる。おそろしくて眠れない。でも祈るのをやめることもできない。


こんな経験をしてきて、どんなふうに人を許したらいいのかわからない。自分の記憶を消すことができたら楽になると思う。毎日生きるためには怒りや恨みを抱えているのはつらい。忘れて幸せになりたい。事情を知らない人が私の隣で笑ってくれる。新しい勤務先で上司が仕事をもってきてくれる。それでも私は「人生はコントロール可能で、悪いことをせずに努力を重ねていれば、そこまでひどい目にはあわずに生きていくことができる」という感覚を持つことができない。真っ暗な穴が人生のそこかしこに空いていて、いくら努力してもいくら誠実に振る舞っても引っ張り込まれてしまう。それが人生が私に見せてくれた世界の姿だからだ。


許すことができないにしても、辛かった日々を手放して生きていこうと思ったことは何度もあるし、退職日以降に幸せだと思ったこともある。それでも「ああ、許せない」とまた思うのだ。どんなに自由になろうとしても、社長の声も幹部の顔も脳裏に焼き付いて絶対に離れることはない。


私の人生と最後まで一緒に歩むのは私自身しかいない。だから、「許しなさい」「許せば楽になる」「許さなければあなたは過去に縛り付けられたままだ」と軽々しく言うのはやめてほしい。「幸せになることがただひとつの復讐の方法だ」とか「許せばあなたは相手より強く優しくなる。だが許さなければあなたは彼らと同レベルになってしまう」とか、その手の言葉は読み尽くした。世界に空いている真っ暗な穴に飲み込まれてしまった人に「許さなくていい、恨んでいい、憎んでいい、納得できなくていい」と声をかけるのは大切なんじゃないかと今の私は思う。理不尽な出来事はたくさん起こるけど、それはあなたのせいじゃない。どうか公正世界仮説とその信奉者なんかに傷つけられてしまわないで。


許せない。許さない。そして、生きていく。

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