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『好きな作品を教えるのは自分の性格を把握されそうで憚られる』の回

「好きなアーティスト誰なん?」と聞かれたときに、素直に自分の一番好きなアーティストを答えられない。なぜなら自分の一番好きなアーティストを知られることで、自分の内面みたいなものまでバレてしまうような気がするから。だからあえて四番目ぐらいに好きなアーティストの名前を挙げる。四番目ぐらいならバレるのが自分の片鱗程度で済む気がする。二番目と三番目もまだ、結構踏み込まれる気がして言いたくない。

というのも、わたしは自分自身の人格が小説や漫画や音楽などの影響を大いに受けて形成されている自覚があるし、また、それらによって他人の人となりをある程度判断できるとも思っている。『へえ〜、この人はこういう曲が好きなんや。ってことはこういう価値観をもってんのか』みたいな感じで。

だから自分は好きだけど、雰囲気が暗いものや、内省的な内容のものなどを素直に好きですと伝えることができない。それを伝えることで『この人、なんかひねくれてんのか?』とか『闇の部分ある?』とか思われそうだから。いや、そういう部分もあるにはあるけれど、一面ってだけでそれが全てじゃないから。そこだけピックアップされても。とか言いながらも、普段明るいなと思っていた人から想像もしていなかったものを好きだと教えられると『うわ、意外な一面感じたわ…』と、ちょっとした衝撃を受けてしまう。やはりシリアスの力は凄まじくて、普段表に出ている部分よりも、そういった隠れた部分ばかりが強調されて印象に残ってしまう。

とは言え、たまに内ポケットに忍ばせていた自分の一番好きな作品を出したい、知ってほしいと思うときもある。『この人だったら良さが分かってくれるかな?』と思って懐を見せたくなるときがある。結局、わたしはわたしのことを知ってほしいのだろう。けれども、そんな勇気がないから自分の一番好きなものは隠すのだけれど、ちょっとは知ってほしいから四番目のものは教える。なんだか自分のことがめちゃくちゃ臆病者かつ卑怯者に思えてきた。自分の好きなものを他の誰かと共有できる、そんな喜びが待っているかもしれない状況に素直に飛び込めないのは、なんとも勿体ない気がする。

ええじゃないか、別に分かってもらえなくても。それはそれで分かってもらえたときはめちゃくちゃ嬉しいぞ? 踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々の精神で心を解放していくべきだ。って思うときもあるんだけれど、いざそんなときが来るとその一歩が踏み出せないんですよ、これが。めっちゃ仲のいい人にしか言えない。基本は見る阿呆に徹して、一緒に踊る人は厳選しています。気の合いそうな阿呆としか踊る気はない阿呆なのです、わたしは。っていうか、踊るのと見るの、なんでどっちも阿呆前提なん? 煽り強すぎじゃない? どんだけ踊らせたいねん。ってことで、より強く殻に閉じこもってしまいました…


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