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『落とし物を拾って渡した後も人生は続く』の回

フィクションの世界では、あるピークの瞬間で物語が終わることがしばしばある。しかし、現実世界ではそうは行かない。ピークを迎えたあとも人生は続く。続いていくのが人生。

例えば前を歩いている人がハンカチを落としたとする。それを拾って小走りで追いかける。追いついて「ハンカチ落としましたよ」と言いながらハンカチを手渡す。向こうは「ああっ、ありがとうございます!」と言う。「いえいえ、お気になさらずに」なんていう風に恩着せがましくならないよう超スマートな対応をする。うーん、完璧だ。がしかし、ここで終わらないのが人生。このあとも人生は続くのだ。ハンカチを渡し終わったあとの行動がめちゃくちゃ難しい。前を歩いていた人の落としたハンカチに気付くということは、その人と進行方向が一緒ということである。そして、ハンカチを手渡すために追いついてしまったがために、このあと歩き出すときに一緒な感じに、Come Togetherな感じになってしまう。とはいえハンカチを拾い拾われただけの泡沫の関係であり、一緒に歩くのなんてそれは気まずい。そんなん無理無理。それでも向こうは拾われた恩を感じてか、こちらをチラチラ見て気持ちをスパッと切り替えて歩き出せずにいる。いやいや、そんなこと気にせずにどうぞ先に行ってくれたまえ。かといって、こちらが急ブレーキをかけて相手と距離をとるのもわざとらしい。さっきまであんなにスマートだったのに、今はすごくぎこちない空気が漂っている。ああ、いっそのことフィクションみたいにハンカチを渡し終わったらブラックアウトして次の場面に展開してはくれないだろうか。

この、人生は続くからこそ存在する妙な恥ずかしさや気まずさみたいなものは大変厄介だ。他にも電車に乗っていて老人に席を譲るとき、譲り終わったらさっさと目的の駅に着いた場面に移ってほしい。席を譲り終わったあとの、おじいちゃんおばあちゃんとの距離が近い状況がなんだか気まずいのだ。おばあちゃんもチラチラこちらの様子を伺っている。陽気なおばあちゃんなんかは話しかけてきたりする。そのね、おばあちゃんが大変かもしれないから席を譲ろうとは思ったけれど、見ず知らずの人とコミュニケーションを取ろうとまでは、こっちは思ってないのよ。ごめんね、おばあちゃん。だからそっとしておいて。なんか譲ってもらったからソワソワするのは分かるけど。そんなん気にせんでいいから。といった具合になるから、いざ老人に席を譲るべきシチュエーションが来たとしてもすぐに体が動かないことがある。なんてめんどくさい人間なんだ、自分は。

だからたまに思うのだ。ピークの瞬間で死んでしまいたいと。これは本気で死にたいと思っているわけではなく、この瞬間で人生が終わっても別にいいなっていうぐらいの感じだ。わたしは大学の卒業旅行で沖縄に行ったのだが、その旅行がめちゃくちゃ楽しすぎて、最終日前日の夜のホテルのベットで『このまま今日寝て、目が覚めないで人生が終わっても別にいいな』なんて考えてしまった。明日になれば旅行も終わってしまい、そしてこの旅行の終了とともに学生生活も終わってしまうことになる。そうなると途端に切なさが胸を襲ってきて、いっそのことこの最高の瞬間をもって人生を終えたいと思ってしまったのだ。天にも昇るほどの喜びとはよく言うが、わたしの場合は喜びで死ぬのではなく、喜びが失われるのが怖くて死んでしまいたいといったようなものだ。とはいえ、実際に人生が終わるなんてことはなく、次の日には荷物を片付けてホテルを出て、飛行機に乗って沖縄を離れた。あの飛行機の中の『終わった・・・』っていう感じは多分一生忘れないだろう。そしてこんなふうに『もう人生終わってもいいな』と思う瞬間のハードルは年々下がっていっているような気がする。最近は普通に金曜日に家で鍋を食べながらお笑い番組を見て笑っているときにふと『あっ、いま別に終わってもいいな』なんて思うこともある。これは流石にインスタントになり過ぎている。

こんなわたしのようなスケールの小さい話ばかりではなく、もっと大きいスケールの「人生は続く」もある。甲子園で優勝した高校球児にも、東大に受かった秀才にも、月に行った宇宙飛行士にもその後の人生はある。彼、彼女たちはそんなピークを迎えた瞬間にもう死んでもいいなんて思ったりしたんだろうか。わたし以上の大きな喜びと、それが過ぎ去ったあとの喪失感を受け止められたのだろうか。なんて、失う前提で話を進めているけれど、その喜びを更新し続ける人生もそりゃああるだろうよ。もっと前向きに生きて、もっと喜びに満ちた人生。ほんでもって別にわたしも本当に死にたいわけじゃない。天国でも地獄でもない、2つの間に挟まれたこの世界でまだまだ人生は続いていく。


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