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『スケルトンってホンマは透明っていう意味ないんや』の回

人生でたまに襲われる原因不明の腹痛。わたしの場合は一年に二回ぐらいの頻度で襲われる。そのときの絶望感たるや、ハンターハンターにおいてネフェルピトーがカイトの首を持っていたときのそれと同じくらいである。いまのわたしは下痢に襲われたときの絶望感をこんな風に例えたけれど、このシーンを読む前の自分なら何に例えていただろうか。幽遊白書の戸愚呂に「おまえもしかしてまだ自分が死なないとでも思ってるんじゃないかね?」と言われたときの幽助と同じくらいの絶望感と例えていただろうか。冨樫先生の描く漫画のセリフは、学生時代のわたしや友人たちに尋常じゃないほどの影響を与えた。

原因不明の腹痛のときには、大便をいくら出しても腹痛は治らない。けれども、その腹痛が原因不明のものであるかどうかは治ってから気づくものであり、絶賛腹痛に襲われ中の状況においては、大便を出し切ればこの苦しみから解放されるのではないかという考えに囚われてしまう。そんなことを繰り返し味わったところでふと思うのだ。一度スケルトンになって、どれくらいの大便が腸の中に入っているものなのかを知っておきたいと。

突然なにを言い出したんだとびっくりした人もいることだろう。そこで、これが一体どういう考えに基づくものなのかを説明したいと思う。原因不明の腹痛のときにはどれだけ大便をしても意味はない。であるならば、一度自分の腸の容量さえ把握しておけば、どれだけ大便が出れば腸内がすっからかんになるのかを判断することができ、おそらく出し切ったであろうにも関わらず腹痛が続く場合に、これはもうどれだけ出しても意味はない原因不明の腹痛であると判断でき、無駄に足掻くことなく諦めがつくようになるのではないか、こういった考えに基づいている。諦めることさえできれば、あとはもう苦しみに身を任せるのみ。いまの自分にできるのは無理に気張ることではなく、この痛みの波が自然に引いてくれるのをただ待つことのみと、悟りの境地に至ることができる。Let's 解脱。

がしかし、ここで問題が発生した。一度スケルトンになってみたいとは言ったものの、スケルトンの意味を改めて調べてみると、なんとそこに透明という意味はないではないか。スケルトン=透明は日本でのみ通じる意味あり、本場のスケルトン、つまりは英語のskeletonは透明という意味ではなく、骨格という意味ではないか。そうするとスケルトンになったとしてもわたしの望みは叶えられない。スケルトンになってしまえば、ウンコもクソもなくなって、身体は骨だけになってしまう。そうすると腸の容量を知ることなんてできない。

ああ、言葉はなんて難しいのだろうか。誤用で有名なものとしては「的を射る」を「的を得る」とするなどが挙げられるが、こんなところにも潜んでいただなんて。スケルトンに透明という意味があると思い込んでいたのは、その音感からであろうか。スケルトンの"スケル"の部分から、勝手に"透ける"という意味を連想してしまっていたのだろうか。なんて紛らわしい・・・。でもネバーギブアップはざっくりと粘るって意味じゃないか。"ネバ"と"粘"で一緒の意味ではないか。ここに世界の法則を見つけたと思っていたのに。でも冷静に考えてネバーギブアップを粘るという意味で解釈するのも大分パワープレイですね。


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