人生初の太宰治。

私には「本を読める時期」というのがあって、その時々で読める本の種類が変わります。
恋愛ものが読めるときに推理小説は入ってこないし、詩を朗読したいときは文字数が多いものは読みたくない。そして雑学系とかビジネス本が読めるときには小説や詩は冗長で、感情的で、どうにも手に余るものに感じたりします。

最近、帯に惹かれて人生で初(多分)となる太宰治を読みました。国語の教科書とかでつまみ読みはしたけど、自分で買ったのは初めて。

2つの短編からなるのですが、個人的感覚としてはどちらの主人公も本当に...中二病というか...?
自分は人より物を分かってて世の中の多くの人より冷静で知的だと思っているけど、感情の振り幅の大きさとかすぐ前言撤回するところとか、若さ以外の何物でもない、この有り余るパッション。
自分にもかつてこんなに感情が揺れる時期があったなぁと思い出されました。

そうして、なんならその乱れる感情を読むことに私は嫌気さえ覚えることにこの本を読んで気付いたのです。パッションがなくなったと思ってはいたけど、嫌忌するというのは自分でも驚きでした。なつかしさより嫌忌があるということは、私はまだ近しいところにいるのかもしれない。
この本を読んで「やれやれまだ若いな、この少年は」と思っている時点で、この主人公が同級生を分類して「大したことないやつばかり」と言っているのと大差ないのだから。

小説は、こういう誰かに成り切った感覚を愉しみつつ読後に振り返るのが楽しい。自分だったらこのシーンどうしたかとか、この人の考え方で今の自分の状態ならどう動くかとか妄想するのが好きで、小説を読めるタイミングっていうのはそういうことをする余裕があるときなのだと思います。

有名らしい太宰治の「正義と微笑」の一説、なるほどと思えたので転載しておきます。

勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。
植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。
日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。
何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。
覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。
カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記している事でなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。
学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。
勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ! これだけだ、俺の言いたいのは

覚えると同時に忘れてしまってもいい。生活に無理に直接に役立てようと焦ってはいけない。心を広く持つために学問が必要だという、このパワーワード。
勉強しよう、カルチべートしよう、という気にさせます。


ちなみに2本立てでもう一遍、「パンドラの匣」にも刺さる一節がありました。
主人公は病気療養中に療養所の同室メンバーと一緒に詩を発表する機会があった。皆が詩を持ち寄るのだが、「かっぽれ」というあだ名の男性メンバーが出してきた詩の中には著名人のものや「マア坊」というあだ名の女性の助手さんが書いていたものがあった。
主人公は彼をなんて困ったやつだと考えていたが、彼はもちろん、勝手に使われたマア坊も全く気にしていなかったことに驚いてこう綴った、というもの。

この人たちには、作者の名なんて、どうでもいいんだ。みんなで力を合せて作ったもののような気がしているのだ。
そうして、みんなで一日を楽しみ合う事が出来たら、それでいいのだ。

芸術と、民衆との関係は、元来そんなものだったのではなかろうか。
ベートーヴェンに限るの、リストは二流だのと、所謂その道の「通人」たちが口角泡をとばして議論している間に、民衆たちは、その議論を置き去りにして、さっさとめいめいの好むところの曲目に耳を澄まして楽しんでいるのではあるまいか。

あの人たちには、作者なんて、てんで有り難くないんだ。
一茶が作っても、かっぽれが作っても、マア坊が作っても、その句が面白くなけりゃ、無関心なのだ。
社交上のエチケットだとか、または、趣味の向上だなんて事のために無理に芸術の「勉強」をしやしないのだ。
自分の心にふれた作品だけを自分流儀で覚えて置くのだ。それだけなんだ。
僕は芸術と民衆との関係に就いて、ただいま事新しく教えられたような気がした。

この感覚もすごく腹落ちしまして。

そして「直接役立たない勉強こそ人格形成に大事だ」と語る「正義と微笑」の一節がありつつ、同じ書籍の「パンドラの匣」では「民衆は無理に勉強をしやしないのだ」という言葉を載せるという、ここに編集の巧みがあるなと感じるのです。

書かれた時期とか作風とかだけじゃなく、そういう編纂の愉しみ方があるのだとしたら、編集というのは教養があればすごく楽しい仕事なんだろうなと思いました。

あと、キリスト教が色々な欧米のシステムの基盤にあるという文章がどこかにあった気がするのですが、どのへんが?とか納得できるところがなかったのでキリスト教をさっくり学びたいなという気持ちになりました。
山に登ると次に上りたい山が見つかるように、本を読むと次に読みたい本が見つかる。

でもジャンルが違う本(小説とキリスト教の解説本)なので、同じ時期に読めない。悩ましい。

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