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美しい夜

 それは肌寒い夜のことだった。

 僕はここ数日、心の奥に大きなカタマリがあることを自覚していた。
一般に人が”気持ち”と呼ぶものだ。


 無機質なビルを出て、駅につながる高架を歩く。
僕の”気持ち”が背後を指すのを感じた。僕は振り返る。するとそこには”彼女”がいた。目があった気がして、僕は思わず向き直る。
 意識を後ろに向けながら、調子を変えずに歩く。売れないミュージシャンが道の端でギターを抱える姿が目に入る。彼の歌声が聞こえる。ふと空を見上げると、頭上には薄い雲の隙間から丸く輝く月が見えた。

 改札に近づき、分かれ道になっている所をそのまま真っ直ぐ進む。
 再び後ろを振り返ると、”彼女”がもう一方へと行くのが見えた。
 その時僕の”気持ち”が強く動き、驚く身体を引っ張った。気がつくと、”彼女”は僕の目の前で立ち止まっていた。僕の口が動く。”彼女”の丸く大きな目がよく動くのが見える。いつの間にか”気持ち”が”彼女”に伝わっていた。僕にとって初めてのことだった。でも、伝わっていただけであった。”彼女”は”気持ち”を持っていなかった。

 またいつもの道を歩いて、電車に乗った。ただぼうっと揺れる車体に身を任せる。半分ほど開けられた窓から入り込む冷たい風が、火照った耳元を冷やした。

 駅を出ると、また月が見えた。星も幾つか煌めいていた。僕はどこか楽しくなって、おもしろおかしくなって、思わず走り出した。
 住宅街にひっそりと佇む橋に出ると一気に視界が開けた。雲一つない、澄んだ夜空が広がる。

 それはとても、美しい夜だった。

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