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ネットアプリケーションの性質フローについて

前に同じことを書いた気がするが、ネットアプリケーションの流れ。

OPEN→CLOSED→OPEN→CLOSED→OPEN→CLOSED→OPEN→CLOSED。
只今絶賛CLOSED。

厳密に言うと「OPENにCLOSED」。

当たり前だが、CLOSEDなところに一番大事なことが蓄えられている。維持、管理、運営経費が掛かるのと、商売的に有料なのだが。
問題なのは、こういうものがあって、その存在自体を見つけれることは完全にOPENになっているのに、なぜかそれらを発見する力を失ってしまったのかと、実はこれらはスマホではほとんど見つけれない。
僕が学校教育でプラグラムなんか教える前に情報にアクセスする能力を教えるべきだと論じているのはこれが根拠となる。

ネットの情報はすべて無料で手に入るとか少々間違った情報が流れるときがある。
まあ、大部分は無料でアクセスできるんだが、無料だと時間と労力を使っているコントローラーがいないので、その情報が間違っているかそうじゃないのかはすべて自分の判断能力と考察力が試される。結果、自分の考え、思想に傾きまくるときがある。なぜなら、無料だと、自分の同じ意見な内容しか見ないから。

無料か有料でも使いたいと判断する場合、フリーミアムモデルってな概念があるが、なぜそもそもそれがフリーミアムなのか、ということを調べてないからな気もするんだが、人にはその情報源や、そのインフォメーションコミニティが自分の肌に合っているかどうかの判断にもなるが。

情報は時間を使ってリアルで見て考えるのが当たり前に一番良いに決まってる。リアルに人にあって聞くのが一番に決まっている。なんでもかんでもパソコン・スマホの中の情報で判断するのは厳しい、危険でやめたほうがいいと思う。しかし実際に歩くと行動範囲に物理的限界が発生する。
そしてコンピュータは所詮道具、読み書きそろばん道具だ。目的ではない。目的化してはならない。

しかし、道具は完璧に使いよう、包丁とまったく同じ。

なぜ、OPEN→CLOSED→OPEN→CLOSEDを繰り返すか。
そりゃ、OPEN状態だと、広がっていく。使っているのは人間。社会性を持つ。居場所、所属所に心地よさを感じる、それが社会性の一要素。OPENに個別広がっていった人は、再度居場所を求める。ネットもリアルもまったく同じ。今の社会とネットとは同じ動きをする。共同場所というCLOSEDな世界に戻ってくる。そして、また広がっていく、戻ってくる。ネットもリアルと同じ動きをする。

以前、マクドナルドかどっかで仕事をするノマドワークが流行った。その人たちは、今どこかのコミュニティに戻った。昔も今も同じ動き。またいつの日か人はOPENに空に羽ばたく。そして帰ってくる。価値を紐付けた所か、地縁か。同じ日本でも東京と田舎ではまったくその紐づく所は異なる。

ずっと繰り返しは続くかと。

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