夫が10月中に退院になるらしく、 お世話になるケアマネさんを決めたり、 家の改修も必要なため、療法士さんたちが家にやってきたり… わたしは とんでもなく忙しい毎日を過ごしています。 お仕事は、9月いっぱいで退職することに決めました。 せめて2学期末まで勤めたかったのですが、仕方ありません。 前任校から異動になり、2年目。 一緒に勤務する先生方との信頼関係と 児童や保護者の方たちとの信頼関係も ようやく築き始められていたので、 (いやきっとちゃんと築けていたのだと思う。)
美由(夫の次女)と一緒に面会した7月29日から1週間ほど、心から真っ黒な血が出ていたワタクシでしたが、 お陰様で現在は落ち着きを取り戻しました。 夫に対して、退院したら大阪へ帰れや💢 と鬼のように腹を立てていたわたしでしたが、 わたしの長所 腹を立ててもすぐに忘れる が幸いし、1週間で平常心に戻りました。 夫はそんな妻の心の変化など知る由もなく 片麻痺という今の自分の状態に困惑し、 それを受け入れられなくてもがいている… それこそメンタルに大ダメージを負っているのだろうけ
元夫と離婚した後、教育委員会に採用されるまでの間(約1年半)はダブルワークをしていた私。 早朝から深夜まで とにかくがむしゃらに働いた。 その時の睡眠時間はほぼ毎日3時間。 アパートの階段が上れないくらいクタクタに疲れて帰宅していた。 それでも家事も疎かにはできず 洗濯に台所仕事、 中学生の息子のお弁当と、娘と息子の夕飯だけは きちんと準備して出勤していた。 どう頑張っても 元夫の稼ぎ(年収1000万)の穴埋めはできず 子どもたちにも経済的に辛い思いをさせてしまい 挙げ句
前回の記事の続きです。 なかなか続きが書けなかったのは 私の体調が良くなかったこと… 購入したTVが不良品で販売店とのやり取りに大変な時間を費やし、それで心身ともに疲れ果ててしまいました。 そんなタイミングで保護猫の子猫を迎えることに至ったり…と、 自分の時間が全くありませんでした。 7月11日 木曜日 今日はどうしても夫に伝えたいことがありました。 面会の受付を済ませ、看護助手さんから 『こちらへどうぞ』 と、夫の向かい側に座るように促されましたが わたしは 『
脳出血で夫が倒れた日から わたしは鬱とパニック障害が再発してしまいました。 そのせいで、物忘れがひどくなったり 文字が読めなくなったり、書けなくなったり 思っていることや言葉がスムーズに出てこない、話せない…になってしまい さらに7月に入ると、個人懇談会の準備が始まったことで 仕事も忙しくなり、疲れて家事は疎かになり 心に余裕もなくなりました。 鬱で 文章を書くことがスムーズに出来なくなったので、 この、『noteに近況や夫の様子を書き記す』ということも わたしにとってはと
6月28日に介護保険の要介護認定の調査があり、 7月12日に結果が届きました。 要介護5 とのことです。 この、7月前後あたりから 夫がようやくお金のことを気にするようになりました。 オレのキャッシュカード、どこにあるかわかった? 通帳は?暗証番号はわかった? あけちゃんと亮ちゃん(亮輔=わたしの息子)が お金に困らないようにオレのお金を使ってね… これまで、わたしたちは別居婚でしたので、 生計もそれぞれ別々に立てており わたしは夫の貯金がいくらなのか? 毎月の収入
6月28日 金曜日 要介護認定の調査がありました。 わたしも病院で立ち合いました。 わたしの姿を見つけると、夫は あけちゃん、来てくれてありがとう。 迷惑かけてごめんな。 結婚したのに、幸せにしてあげられなくてごめん。 と 泣きました。 わたしは、本当は 『あなたが生きていてくれるだけで幸せだよ。』 と言ってあげたかったのだけど、 甘やかしたらあかんかも?と思い直して なにを言うてるの! 今からやで! 今から幸せにしてもらうから早よ動けるようになって家に帰って
6月19日 水曜日 主治医から夫の経過報告がある日。 大阪から真由(夫の長女)が来る。 陽奈(わたしの娘)も今日は仕事がお休みなので 3人で病院へ行く。 院長先生、担当の看護師Aさん、ソーシャルワーカーのYさんと共に夫も登場。 夫は真由が来ていることを知り、真由の顔を見て泣く。 転院の際に真由が来てくれた時は 真由のことも美由のことも全く眼中になくて、 彼女たちが話しかけても 反応がなく、 まるで存在をわかっていないかのようだったのに、 この日、倒れて入院してから初
リハビリ病院は、週に一度しか面会が出来ないので、 わたしの仕事が休みの、毎週土曜日に 面会に行くことになった。 転院して、最初の1週間は 夫は ほぼ一日中眠っていたそうだ。 6月8日 転院後の初めての面会で夫に会った時、 あけちゃん!オレ、意地悪されてるねん! と、ミトンをはめられた手を見せて これを外して欲しい! と、涙ながらに訴えた夫。 無意識に 経管栄養のための鼻チューブを抜去してしまうため、その防止対策としてミトンをはめられていたのだ。 『鼻のチューブ
5/9〜6/3 までお世話になった救命救急センターでは、 夫は一日のほとんどを眠って過ごしていた。 入院して2週間経った頃、 転院先のリハビリ病院を4カ所オススメされ、 この中から転院先を決めてください と 言われ ◉脳神経外科の医師がいて ◉療法士さんがたくさんいてリハビリをしっかりやってくれる ◉嚥下のリハビリの実績もダントツ と聞いてK病院に決定した。 わたしの自宅からは車で40分。 (スピード出すタイプで40分💨) K病院の近くの美容室に通っていたことがあ
5/14にSCUに移り、 ひとまず 夫の容体は安定しましたが、 なかなか覚醒が進まず ようやく目が開いたのは5/26でした。 その日、娘と2人で面会に行くと ちょうど男性の看護師さんが夫の痰を吸引してくださっていて、 夫に向かって大きな声で 『奥さんが来てくれたから、目を開けてあげて〜』 と呼びかけてくださると、 👀 ぱちくり なんと、夫が目を開けたのです。 そして 夫が わたしの顔をしっかりと見て あけの顔が見えた〜 と 言ってくれたけど、 でも眩しい、
容体が安定していれば 5月14日にHCUからSCUへ移る…と、 主治医から電話で聞かされていた予定通りに、 夫は5月14日にSCUに移ることができ、 同居の家族のみ面会が可能になった。 この頃、まだ夫は一日中眠っていて 面会に行き、呼びかけたり話しかけたりすると 返事はしてくれるものの、 目は瞑ったまま… 点滴はもちろん、いろんな機械が夫の身体に繋がれていて 血圧もまだ高いとのことだった。 5月16日に、主治医から術前のCT画像と 術後のCT画像を見せていただいて経過の
5月10日 オペから24時間経過し、 主治医から電話がありました。 今のところ、他からの出血もなく 鎮静の薬を切り 人工呼吸器離脱。 しっかり自発呼吸ができていて、 呼びかけに右手をグーパーと動かすことが出来た…と。 開眼はしていないが、意識はあり、ひとまず落ち着いています。 とのこと。 がんばりました。 少しだけホッとして、 子どもたちにも 少しだけ笑顔が出ました。 前回も書きましたが、 夫が入院してから わたしは、夫が倒れた自分たちの部屋では 1人では眠ること
夫には娘が2人いる。 病院に到着して、入院の手続きやらなんやらを終えて ひとまず落ち着いた4:40の時点で、 実は、大阪に住んでいる娘たちには電話をかけている。 でも、出なかった。 27歳と21歳。 上の子は和菓子屋さんの店長をしており、 下の子は高校を卒業して市役所に勤めている。 2人とも、一度寝たら朝まで起きないタイプなので、 もしも夫が大阪で倒れていたら 誰にも気付かれずにそのまま亡くなっていたと思う。 〝わたしの隣で寝ていた〟 夫は、それだけでもう ✨強運✨
普段、わたしと夫は名古屋と大阪でそれぞれの子どもたちと別々に暮らしている。 (生計も別。) わたしの家は、 わたしの息子が、23歳の時に建ててくれた家で、(母子家庭時代に苦労させてしまい、結果、母親孝行な優しい息子に育ちました💦申し訳ない💦) 夫は月に一度、必ず1週間ほど休みを取って我が家へ滞在することにしていた。 夫が倒れたのは、 大阪での父の四十九日法要が終わり、 夫がわたしを名古屋まで送ってくれた日の翌朝の出来事だった。 早朝4:00に倒れた夫は 救命救急センター
令和6年5月9日 早朝4時、夫がトイレに行こうとしたら立ち上がれない。 左半身に力が入らず、 座ることさえ出来ず、 これは大変なことが起きた! と、2階で寝ていた息子と娘を起こして 救急車を呼ぶ。 救急車を要請した時、 わたしは唾液が出なくなり 喉が渇き 上手く話せず、しっかりと説明が出来なかった。 後から娘は ちゃんと話せていたし 説明も出来ていたよ と言ってくれていたので 自分が思っていたよりは普通に話していたのかも… 救急車の到着は早かった。 わたしが