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ルミナント

腹の上で丸くなっている猫は、今から五年前、俺が十五歳のときに我が家へやってきた。

彼女にルミと名前をつけたのは、六つ歳の離れた姉の結宇だった。フィンランド語で、雪、という意味らしい。「猫を飼いたい」と結宇が唐突に言った日のことを、俺はよく覚えている。昔から突拍子のない結宇の思いつきを両親は何度もあしらってきたが、あの日は熱の入りが一味違った。普段なら、父は適当な相槌を打ち、母は巧みに話題を変えるのに、この日ばかりは両親が姉の話に聞く耳を持ったのだ。

「ほら、お母さんのパスケースの端っこにも猫ちゃんついてるじゃん。猫、好きなんじゃなないの?」
女の観察眼というのはさすがと言わざるを得ない。結宇はそれを見過ごさず、勢いよく話し出し、両親の説得を試みた。

一生のお願い、という娘の上目遣いに最初に屈したのは父だった。
「お前が、責任もって面倒みるんだぞ」
父は無愛想に猫を迎えることを認め、結宇は子どもみたいに喜んだ。

「もう、パパ大好き!」


それから血統書付きの子がいい、と結宇は調子に乗って両親に甘えたが、綺麗でないと可愛がれないとは何ごとかと、堅物の父は叱った。父は、動物福祉の観点からも保健所から引き取るべきだと畳み掛け、結局、高校受験中の俺を抜いた三人で保健所に出向いたのだった。

保健所で、両親は「結宇が気に入った子を連れてきなさい」とだけ言ってロビーで待っていたという。保健所の檻の中の子猫の眼に光はなく、暗い雰囲気で嫌になったと、あとになって結宇は話した。たくさんの猫がいるなかで、この生まれて間もない子猫を選んだのはなぜかと尋ねると、姉は意外な言葉を返した。

「この子なら、まだ救えるかもって思ってさ」



姉は、あっさりといなくなった。

交通事故だった。
「信号は、確かに青でした」と初老の警察官は言った。我が家にルミを迎えてからたった四ヶ月。俺が高校に入学したばかりの、ある春の日の出来事だった。

俺の姉は、ルミに予防接種を受けさせるために動物病院に連れて行った帰り道、居眠り運転をしたトレーラーに撥ねられて死んだ。事故の瞬間、結宇はルミを胸に抱いていたようだった。

山手警察署の無機質な会議室で、俺たちと距離をとって座るルミに目を遣りながら、中年の警察官は、泣き崩れる母と怒りに震える父を前に遠慮しながら言った。

「きっと、直前に娘さん腕のなかからぴょんと抜け出したんでしょう」
まだ一歳にもなっていない子猫だ。事故のショックも重なれば、そのまま逃げてしまうのが自然だろう。しかし、ルミは目も当てられないほどに傷ついた結宇をじっと見ながら、その横で座り込んでいたという。

会議室には、母親が嗚咽だけが反響していた。
父は微動だにしない。いや、性格には、拳を握りしめ、娘の命を奪った運転手への今にも暴発しそうな怒りを、必死にこらえている様子だった。握る拳のなかで爪が手のひらを刺し、鮮血が数滴、硬いプラスチック製の白いテーブルに滴っていた。父の肩は震えていた。


「きみ、まだ五歳か……つらいよね……。寂しいよね……。」
背後で声がした。
若い女性警官が小さい声で呟きながら、ルミを撫でていた。
俺が振り向くと、女性警官は「あ…、申し訳ございません」と深々と頭を下げ、ばつの悪そうな顔をしてその場を立ち去ろうとした。俺たち三人は、家族を失っている。そんな中でお前は猫の心配かと言われたら、返す言葉もない。女性警官の表情はそう語っていた。

「あの」
「はい……。あの、大変…失礼をいたしました」
「いえ、そうじゃなくて。こいつ、生まれたばっかなんです」
「えっ?」
「だから、五年も経ってないってことです」
「あ、ああ……。」
女性警官は、適切な言葉を慎重に探っている様子だった。

「えっと、この子……。たぶん、生まれてから半年くらいですよね。猫の年齢って、ちょっと複雑で。猫って人の四倍、歳を取るのが早いんです。このくらいだと、だいたい人の年齢で五歳くらいかなって……」

俺は答えなかった。母親の啜り泣く声が無機質な部屋に反響する。

「えっと……、失礼いたします」

鉄扉が閉じる音がして、部屋は再び重い沈黙に支配された。
こういうとき、結宇のやかましいほどの明るさが必要なのに。


「田丸さん、大変お気の毒ですが、ご遺体はご覧にならない方がよろしいかと思います」
しばらくして戻ってきた初老の警察官がそう言ったので、俺たちはいくつかの書類に署名して、家に帰った。帰り道も、家に着いてからも、誰も口をきかなかった。ルミも、家族で出かけるときの結宇の指定席だった右側の後部座席に、黙って座っていた。結宇は死んだのだと言われても、俺にはその実感がなかった。隣に座っているルミはどうだろう。こいつはいま、どんなことを考えているのだろう。



姉の部屋にあった真新しいルミのケージを、俺の部屋へ移すことにした。
猫というのは基本的に自由気ままな生き物だ。昼は適当に外出をして、夜になると家に帰ってきて餌をねだる。だが夜だけはケージに入れて、そのなかで眠ってもらうのだと、ネットに書いてあった。それは、自由すぎる性格がゆえに、人間の睡眠を妨げないための慣わしでもあるようだ。だが、ルミを檻に入れるという行為は、俺には気が引けた。

姉を失った後である。事故当時も一緒にいたルミがある日帰ってこなくなれば、いよいよ俺も気が狂ってしまうかもしれない。もう、誰かが突然いなくなるのはいやだ。ならばルミをケージに閉じ込めて、ずっと俺が見ていようかとも考えた。しかし、それは美しくない行為だ。ルミにだって、世界を自由に視る権利がある。

結局、部屋に入れてすぐ、俺はトイレだけを残して、ケージを捨てることにした。スポンサーである父も、何も言わなかった。


姉がいなくなった翌日の夜から、俺はルミと一緒に眠ることにした。
おいで、と声をかけると、ルミは警戒した。当然だと俺は思った。ルミは、俺の胸に抱かれることを、どんなふうに考えているのだろう。つい昨日の出来事だ。人間の温かさに身を任せた瞬間、その温もりは恐ろしい鉄の塊によって粉砕された。先ほどまで身体を包んでいた熱が、あっというまに発散した。もはや飼い主の姿はどこにもない。目前にあるのは、かつて飼い主だったものの肉片だけ。

そんな恐怖があってたまるかと俺は思う。五歳の自分がそんな現場に出会したと想像するだけで悍ましい。何事もなかったかのように別の人間に「さあ、おいで」なんて言われたところで、俺なら恐怖で腰が抜け、嘔吐するに違いない。


だが、ルミは飛びついてきた。
わずかな逡巡はあった。しかし、ルミはまだ短い足をめいっぱいに動かして、駆け足で寄ってきたのだ。俺がルミを抱えると、ルミは身体をぎゅっと丸めて自分の腹のなかに顔を埋めた。

「なあ、怖かったよな。ルミ。大変な目にあったよな」
ルミは、何も言わない。

「姉貴じゃなくて、ごめんな」
「……」
「どっか痛いところとか、ないか?」
「……」
ルミは何も言わない。

俺が口を閉ざせば、またあの無機質な沈黙が部屋を支配する。
沈黙への恐怖はあった。だが、胸のなかに蓄積していた思いが、ひとつひとつ振動をはじめ、やがて膨張し、形を変えて勢いよく外に溢れ出ようとするのを感じた。

「俺、寂しいよ。あいつ、昔からいつも勝手にひとりでいろんなとこ行ってさ。バカだな。なあルミ、横断歩道渡る時ってさ、信号が青でも、右見て、左見て、ってやるんだよ。車が来たら危ないだろ?」
「……」

「だけどあいつ、絶対それを忘れたんだ。ほんと、バカなやつ…。ルミが轢かれちゃったら……、どうして…くれんだっての……」
きなり色のルミの被毛に、大粒の涙が滴り落ちたのを見て、俺は自分が泣いていることに気づいた。

「なあ…ルミ? つらい思いさせて…ごめんな。バカな姉貴の代わりに…謝るよ。怖い思いさせてごめん…。いやなものを…見せちゃって…、ごめんな……」
堰を切ったように涙が溢れ出した。俺は腕に抱いたルミを強く抱きしめ、小さな身体に顔を埋め、声を押し殺して泣いた。

「俺……、寂しいよ。姉貴が…いなくなって、寂しい。悔しい…。あの野郎、畜生! なにもあいつじゃなくたっていいだろう…!」
俺はベッドの淵に膝をつき、マットレスを殴った。

両親は、俺なんかと比にならないほどに心を痛めているに違いない。
それを慮って押し殺した声も、ついには抑えることができなくなった。俺は号泣し、ルミは俺の涙でびしょびしょになった。俺はルミを抱えたまま、ベッドに横たわった。これ以上ルミの被毛を汚してはいけない。ルミを枕に寝かせ、俺はマットレスに顔を埋め、子供みたいに慟哭した。


「…………にゃあ」



年齢が逆転するというのは不思議な感覚だった。
横浜の街に今年初めての雪が降ったころ、ルミの誕生日を思い出した。ルミはこの時代には珍しい野良猫(母によれば、多分捨て猫だろうと保健所の係員は言ったという)なので、性格な誕生日はわからない。だが、姉を亡くした日、女性警官が「この子はたぶん生後半年くらい」と言っていたので、姉の命日からきっかり半年前の十二月二三日を、ルミの誕生日としたのだった。

ルミが一歳になった今、彼女は人にして十五歳になるらしい。
俺は十六歳だから、数ヶ月もすればセンパイということになる。俺が通う高校の部活動では軒並み上下関係が厳しく、センパイには敬語と挨拶は絶対ということになっている。だから、「歳上」と思うと幾許かの緊張がよぎるのだ。とはいえ、猫に敬語を使う人間など、聞いたことがない。テニス部の仲間に知れたら、いい笑い者だ。だが、「絶対」といわれたら、それは絶対である。だから、ルミの一歳の誕生日、俺はひとつ心に決めた。
出かけるとき、帰ってくるとき、俺は必ずルミに挨拶をしようと思ったのだ。


「じゃあな、ルミ」
はじめの一週間、ルミは廊下をてくてく歩き回るだけで、返事のひとつも寄越さなかった。どこかで寝ていて、顔も見せないことも少なくない。だが、こういうのは根気が大切だ。

「ただいま」
今度はそう言いながら、背中を撫でてみる。
「……」

「行ってくるね」
「……」

「ただいまあ」腹をくすぐる。
「……」ちょっと迷惑そうに、ルミが俺を一瞥する。


いってきます。ただいま。

そんなやりとりを何日か繰り返していたある日、ルミが自分から寄ってきた。俺はその瞬間を見逃さなかった。

「おおっ! かわいいやつだなあ」
たまらない気持ちになって抱き抱えると、ルミが俺の顔を見た。

「……にゃあ」
「え? …いまなんて?」
「にゃあ」
「……ルミい! えらいなあ、おかえりが言えるようになったのかあ!」
「にゃあ、にゃあ」

ルミは俺に撫でろと言わんばかりに近寄ってきた。
俺はルミが飽きるまで彼女を撫で、頭にキスをした。ルミと心が通じた気がして、嬉しかった。お互いのほしいものを与え合うことで、歓びが何十倍にも膨れ上がったような気がした。

「ルミ、大好きだぞ」

「……にゃあ」

ルミは頭を撫でられるのが好きなのだと、俺はこのとき知った。
ぱっちりした目はとろんとして、今にも眠りそうだ。
かまわない。眠りたいなら、いくらでも眠ればいい。
おまえが起きるまで、俺がいつまでだって抱き抱えていてやる。



結宇の一回忌の晩、姉はいったいどこに行ったのだろうと考えた。

ばらばらになった結宇は、猫になったのではないかと思った。
人間というのは単なる器であって、本体は魂なのだと、進路指導の菊池先生が言っていたことを思い出す。「さすがにメタいっすよ、先生」なんて菊池先生はクラスメイトにからかわれていたが、ひょっとしたら、そういうこともあるのかもしれないと思ったのだ。

菊池先生の話が本当なら、あの事故の瞬間、「やばっ、ちょっとごめんね!」なんて言って、結宇の魂がルミのなかに飛び移ったなんてこともあるかもしれない。
姉は、そういうやつだ。ルミは本音を言えば勘弁してもらいたかったのだが、なにしろ当時はまだ人にして五歳だったので、あの厚かましい女の魂の相乗りを断れなかったのだと思う。本当にそんな話があるのかどうかはわからない。だが、そんなふうに考えていると、俺はルミを特別な猫だと思うようになった。

以来、俺はルミのなかに、結宇の存在を感じるようになった。
普段はおとなしくて物分かりのいいルミが、時折俺たちに悪戯を仕掛けたり、俺をからかってみせるのは、ルミではなく結宇の仕業なのかもしれない。

子供のころから、迷惑な姉だった。
とにかくやかましく、我が強い。こちらの要求にはまったく応じないのに、向こうの頼みはなんでも聞かされた。いや、実をいえば、嫌味なくそうしてやりたいと思わせる魅力が、姉にはあった。そうして俺は何度も姉に翻弄された。いつか大人になったら、ふざけるなと叱ってやろうと思っていた。だが、あいつはある日突然いなくなった。バカめ。
お前みたいなやつは、すぐにセンパイになるルミに、叱られてしまえばいいのだ。

この子なら救えると思った、と結宇は言った。
救うとは、いったいどういう意味だったのだろう。
その言葉の意味を、もう少し聞いておくべきだったと思う。



石川という関西出身の嫌な上級生が、猫とか犬を家族などと呼ぶやつは気持ち悪いと、部室で声高に叫んでいた。三年生たちが、そんな下世話な話で盛り上がっていたのだ。石川のことは、入部当初から下品でどうしようもないやつだと思っていた。こういう話のわからない人間はどだいだめなのだ。人間は、ある程度のところまでできあがると、それが周りにろくでもないものを撒き散らす出来損ないだとしても、もはや誰の手にも負えなくなるのだと思う。

石川の戯言を、初めは無視していたのだが、この馬鹿者は「見ろや、これ」と言って、部室の裏からとんでもないものを持ってきた。自作の罠にかけた猫だった。革製の首輪と、小さな鈴が付いていた。憔悴しているが、まだ生きている。「害獣駆除ってやつじゃ、こいつ練習中にチラチラ走り回って、目障りだったんじゃ」四匹の子猫を飼っているという二ヶ月前に入ったばかりの一年は、泣きそうな顔をして目を背けた。


「おい、犬か猫を飼っているやつは手を上げろ」
石川はそう言って下級生を並ばせ、横に並べた後、「名前は?」といって顔を近づけ、いやらしく表情を歪めた。俺たち二年と一年が、愛犬や愛猫の名前を馬鹿正直に言うと、「畜生が」といって下品な笑みを浮かべながら、鼻の頭を中指で弾いて回った。俺の番は最後だったので、覚悟はしていた。
だが、石川は俺の顔面にビンタを喰らわせたのだ。

「気色悪いんじゃ、何がルミじゃ、焼いたろかあ? 」
一瞬だけ、世界が停止するのを感じた。俺は我を失うほどに頭に血が上り、石川の頬を拳で殴った。上級生は何をしても許されるという甘えから、下級生に反撃されるなど思っていなかったのだろう。呆気に取られ、石川は驚愕と悲壮の表情を滲ませた。俺は馬乗りになり、馬鹿者が動かなくなるまで殴り続けた。鼻血が勢いよく噴き出し、腕に血飛沫が飛んだが気にならなかった。そのまま殺してやるつもりだった。三年も全員が釘付けになって、俺を止めようとする者はいなかった。

そこに顧問が飛んできて、石川に馬乗りになる俺の脇腹を蹴り飛ばして仲裁した。
ロッカーの扉に背中が叩きつけられ、大きな音が部室に響いた。
「し、死んじまうだろう!」と顧問は俺を怒鳴った。

「……だから、何ですか?」
自分の声とは思えないほど低く落ち着いた声で俺は顧問に言った。

人の大切なものを悪意をもって傷つけたり、大切なものの存在を想像すらできない人間など、死ねばいいと思った。

俺は指導室に連れて行かれ、事情を聞かれたが、一言も話さなかった。
劣悪な罠にかけられた猫と、並ばせられた下級生。そして誰も止める者なく、頬骨が砕けるまで殴られた石川を見て、事情を汲み取れないやつなど教員失格である。

「なあ、まるで田丸じゃないみたいだぞ……」
指導室で、顧問は困惑しきった表情でそう言い、俺を親へ引き渡した。



数日の謹慎のあと、俺は三ヶ月の停学処分となった。
自分の口から父に伝えると、時代錯誤もいいところだなと、父は笑った。

引き返すタイミングなど、いくらでもあった。
だが、後悔はしていない。結宇を亡くした日の、父親の握り拳から落ちる血の雫を思い出す。父は、我慢していた。なによりも大切なものを蹂躙されてもなお、我慢していたのだ。大人の事情というやつだろう。だが、俺は怒るべきときに怒らなくては、この先自分は何とも闘えない気がしたのだ。冗談のつもりでした、わざとじゃありませんでした。卑怯者が後から何を述べたところで、信用に値しない。そんなもの、夏の陽に灼かれた皮膚よりも薄い釈明だ。もしも罠にかかっていたのがルミだったら、俺は今からでも石川を殺しに行っていたはずだ。
煮えたぎる怒りを社会なんていうもののために我慢できるほど、俺は大人じゃない。

停学中はあまりにも暇だった。
どうしてよいかわからず、中学時代のどうしようもない仲間に連絡をした。意味もわからず金髪にしてみたり、眉毛を全て剃ってみたりした。免許など持っていないが、仲間のバイクを運転して、大黒埠頭まで駆け抜けた。

「涼介は気合が入っている」と地元の連中たちから一目置かれるようになった。
ただ気の向くままに生活し、気に入らないことがあれば相手を威圧したり、喧嘩をして決着をつける。どれだけ目立っているかがものさしの、動物的な生活は快楽に満ちていてそれなりに楽しかったが、本当のところ、気合という言葉の意味すら履き違えるような連中や、居場所を失った自分に辟易していた。

家に帰ると、ルミは部屋でにゃあ、にゃあと、ずっと鳴き声をあげていた。
俺はフラストレーションが溜まっていた。うるせえな! と怒鳴ってやろうかと思ったこともある。だが、これは俺個人の問題で、家族やルミにあたるのは筋違いというものだということは理解していたし、なにより俺は決めていたのだ。
何があっても、ルミを傷つけてはならない。


「お前はテニス部を正式に退部になった」
同級生の高橋が家にまでやってきて俺に言った。
高橋は節操のない脱色でぼさぼさになった俺の髪に触れ、「なあ、もういいだろ、涼介」と言って去っていった。

結局三ヶ月間に及んだ最低の生活で学習したのは、やるべきことのない人生というのは、最悪だということだけだった。



姉を亡くしたからというわけではないが、俺は高校を出てから医学部に進学した。山手の実家から通える、横浜市内の公立大学だ。あのどうしようもない三ヶ月間の終わりに、東日本大震災での医療チームのドキュメンタリーを観て、俺は災害医療に関心を持ったのだ。

使命、という言葉の意味を知ったのは、二十一歳、大学三回生になったある夏の講義のことだった。
いよいよ始まった臨床医学の講義で、招聘講師を務めた東大病院の救命救急部長が、救急医療におけるトリアージというきわめて実務的な手順について、根拠や事例に基づいて語ったあと、余談ですが、と控えめな前置きのあとに続けた。

「私は、“人は死なない”と考えています。どういうことかというと、肉体は滅んでも、わたしたちの本当のからだ、魂は、永続するということです。そういう意味では、人は死なない」

きわめて実際的な講義のあとに感覚的な話を始めたので、俺は驚いた。
この男は、魂の話をしている。医学という、理論の究極とも言える学問の場において、形而上学的な話をしているのだ。俺は、高校時代の菊池先生の話を思い出した。人間は器で、本体は魂。
しかし、俺は自分のなかで、疑問の波紋が広がっていくのを感じた。

ならば、医学に何の意味があるというのだ?


「こうした話をした責任を、私はきちんと取らなければなりません。無論、みなさんの頭に浮かんでいる、それならば医学や医者の仕事に意味はあるのか、という疑問に答えるということです。結論から言えば、そのどちらにも重要な意味があると、私は考えています。それは何か。その人が過ごすべき本来の時間、人の寿命を全うさせてあげるお手伝いをすることであると、私は捉えています。私自身は、自分の時間すなわち命、このために使いたいと思って、日々研究に励んでいます。使命、というのは、命を使うと書くわけですから、私のようないち救急医に使命があるとするなら、そういうことではないかと思うのです」


失った三ヶ月という時間を取り返したいという思いで医学部を受験した俺にとって、何百何千の生死をその眼で見てきたベテラン医師の“使命”という言葉は、俺の心を強く打った。三次救命救急という究極の臨床おいて、次々に救いを求める肉体の叫びに耳を傾けながら、その内に魂の存在という死生観を育んできた男。入学して三年、ようやく医師を志す理由ができた。

俺は使命に生きたい。
その晩、そう日記に書いてみた。
使命、という小学校で習った漢字は、何度見ても「命を使う」という二語で形づくられていた。



その翌日から、ルミが定位置を変えた。
この家にやってきてからずっと、彼女は俺の枕で丸くなっていたのだが、なぜか座り心地の悪そうな、俺の本棚に移り住んだのだった。

「にゃーあ」
最近、目が合うとルミは自分からから鳴き声をあげるようになっていた。

「なあんだ、ルミ」俺は本棚からこちらを眺めるルミを抱き上げた。
ずいぶん大きくなった。体重も増えたと思う。今年の冬、ルミは七歳になった。毎回計算するのが大変だが、人にして四十四歳。もう、かなりお姉さんだ。

たまに、結宇も顔を出す。
俺が昼寝をしようとソファーに寝転がり、ちょうど意識を失いかけたころ、姉はいきなり腹の上に飛び乗ってきて、俺の顎を肉球で叩くのだ。こういうときは、「やめろ、姉貴」と叱ってやることにしている。もし、ルミの魂の仕業なら彼女には不憫だが、大人なルミはきっと、こんな子どもみたいな悪戯はしない。


毎晩、俺は彼女を抱いて眠る。温かい、生命の温もりを感じる。
きなり色の被毛を撫で、「かわいいな、ルミ」と言ってみる。姉が見ていたらと思うと恥ずかしくなるが、構わない。ルミの目をまっすぐに見つめる。すこし間をおいて、ルミが先に目を逸らす。最近できた恋人の仕草に、どこか似ていると思う。もしかすると、ルミは人間の言葉がわかっているのかもしれない。

こいつが人間だったら、俺は恋をしていたにちがいない。


だが、ルミは猫だ。七歳のバーマン。



Salubanana's original short story
2024

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