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人間について考え続ける。塩ラーメンという人について(自己紹介としてのnote)


・命を目撃してから

 幼い頃、車に轢かれたスズメを見たことがある。一緒に目撃した友達とは「うわぁ可哀想だね」とか「轢かれてる〜」といった具合に無機質で表面的なやり取りをして、あるいは見て見ぬふりをしたのか記憶は定かではないが、特に関心がないように装っていたことは確かだ。しかし、内心はひどいショックを受けていたことをついこの間のように覚えている。
 それ以来 “命” について少しずつ考えるようになった。もちろん身近な人を亡くす経験もあった。そうやって生きていく上で、生活の中で、目にするものや、食べているものや、使っているもの、そして鏡に映るものを考えた。はじめに書いた幼少期の出来事が影響したのか、人間の命との向き合い方を描く、人間とは何かを問う物語を好むようになったのは中学生からだった。さすがに考えすぎて人生の “底” を経験した、最も心を閉じた暗い時期というのもその頃のこと。

©カラー/EVA製作委員会

 「だろうな」という声が聞こえてきそうだが、この時に最も影響を受けた作品こそ『新世紀エヴァンゲリオン』である。今の私のこうした活動はエヴァから始まっているし、“塩ラーメン” となる以前の話をすれば『PSYCHO-PASS』から人間としての在り方を考えていた。(実はTwitterを遡るとPSYCHO-PASSの考察を上げていたアカウントをエヴァの考察のために転用した)
 そこからよりアニメを観るようになり “人間” とは何かを問う『攻殻機動隊』、大切な命を失うことと向き合う『血界戦線』や『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の物語に私の中の大切なものを形成してもらった。(文学も読め、自分。)

©士郎正宗・Production I.G/講談社・攻殻機動隊製作委員会
©2015 内藤泰弘/集英社・血界戦線製作委員会


・人間とアンドロイドの境界線

 『Detroit: Become Human』というゲームがある。そこでは人間型のアンドロイドが家事や特定の職業に従事し使われる未来が描かれるのだが、この作品の素晴らしいところは、アンドロイドが “個人” として独自の思考(=意志)を持ち始めるほか、(交換できない古い部品などによって)彼らに寿命が存在するとしたところである。

『Detroit: Become Human』©2018 Sony Interactive Entertainment Europe ltd. Developed by Quantic Dream.


 実質的な “死” が存在することはつまり、それまでは “生きている” ということになるのだと思う。生と死は反対の意味では無い。生の中に死は含まれるわけで、私たちは常に死と隣り合わせで生きているのだ。よって、アンドロイドに “死” の概念がある以上、彼らは “生きている” ということを描いたのが『Detroit: Become Human』であると言ってよい。
 ただ、現実的に、全てがプログラムされたアンドロイドに自由意志や個人と呼ばれるものが発現するのかと言えば、それは無いだろう。あくまでこの作品中の設定に基づけば…ということだ。
 では、その世界観では何が人間で何がアンドロイドなのだろうか。身体の構成要素も同じで、個人として思考することのできるアンドロイド。もはや人間との境界線は朧げになっていく。この “境界線が曖昧になっていく” 感覚が私はたまらなく好きだ。


・機械化された人間はどこまで人間か

 先ほども触れた士郎正宗さんの『攻殻機動隊』について。この作品は人間の脳が電脳化し、常にネットに接続された未来を描く。
 原作の漫画は、1991年というまだインターネットがあまり普及していない時代に世に出されているという衝撃がある。その後は押井守監督によって『GHOST IN THE SHELL(1995)』『イノセンス(2004)』と映画が2作つくられ、神山健治監督によるテレビシリーズ『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX(2002)』へとつながっていく。
 特に押井監督の『GHOST IN THE SHELL』ではどこまでが人間か?という問いが強いように思う。作中に、自分には妻と子どもがいると思い込んでいる清掃局員の男が登場するのだが、彼は脳をハッキングされ、その記憶を埋め込まれていた。こうなってくるともはや、自分の生い立ちや、自分のアイデンティティと認識していることすら、実は思い込まされているのかもしれない、本当ではないのかもしれないと疑い出すことになる。

押井守『GHOST IN THE SHELL(1995)』

この男は士郎正宗さんの漫画だと少しコミカルに描かれるのだが、映画版ではとてもシリアスに、人を形成するもの(=記憶)が揺らいだ時、その存在はどうなるとかということに重心を置いていた。

士郎正宗『攻殻機動隊』

 漫画版でもその問いはある。ただ、どこかコミカルなのが面白いところで、例えば草薙素子が「本当の自分は既にいないのかも」という疑念を抱くシーンもこんな具合である。

 「実存」を疑い出せば、それは哲学病に陥ることとなる。無論、私たちの人生に哲学はなくてはならないものであるが、思考があらぬ方向へと飛躍していく危険性が、哲学病とまでいくと生じてくるものだ。

 話が逸れた。機械化された個人は、どこまでが自分なのだろうかという本題に入りたい。科学技術の発達した現代において、『攻殻機動隊』の世界観は非現実的なフィクションとは言い切れないところも出てきた。「私は義手でも義足でもない」って?それはどうだろう。
 いまあなたが手に持っているものについて考えてみる。そのスマホは日常生活に必須で、いつも持ち歩くし、いつも使っている。いつでも分からないことを検索できるから思考の拡張をしているし、いつでもネットに発信できるからアウトプットのツールとしても使っている。もはやあなたの手足と変わらないのではないか。現代人は外部デバイスという形ではありながら、十分に機械化されていると言えるだろう。きっとこれから技術が進めば、そのデバイスはコンタクトレンズとなり、もはや眼球や脳に埋め込まれ、直接的な意味で機械化が進むのだろうが、本質的には今もそう変わらない。
 少し生物学的な話もしよう。私たちは体内に微生物や菌を飼っているらしい。それらは、なくてはならない構成要素としてはたらいていたり、いくつかは有害だったりするわけだが、いずれにしても私たちの中に私たちとは別の個体が存在するわけだ。しかし私たちの一部であり、自分である。
 また、私たちの細胞の多くは日々入れ替わっている。(そうでない細胞もある。)数年前の自分と、新しい細胞になった自分を比べてみて、同じ自分だと言えるだろうか。そしてこれは生物学的な話だけではない。数年も経てば、精神性にも変化があるだろう。

 さて、問いたい。あなたはどこからどこまでが “自分” なのか。もう一度言いたいのだが、私はこの “境界線が曖昧になっていく感覚” がたまらなく好きだ。塩ラーメンという人間について、少しは分かって頂けただろうか。

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