花に水をやりすぎた〜緑黄色社会「サボテン」にそえて〜

突然だが、皆さんは花に水をやりすぎるという経験があるだろうか。

僕は小さい頃、種に水をやると花が咲くよと教わってすぐの頃、たくさん水をやればやるほど、早く大きく育つものと思っていた。たくさん食べれば大きくなる人間と同じだと。しかしそんなことはなかった。花に過剰な水分を与えると、根腐れをおこしかえって枯れてしまう。人間も同じだ。食べ過ぎは体によくない。

そして、この話は花や人間の体に限った話ではない。「愛」も同様に、むやみにたくさん注ぎすぎると、よくない結果を招く。

緑黄色社会のサボテンという曲の一幕だ。

"ごめんね 私はサボテンさえ 上手く育てられずに やりすぎた水が溢れていったよ"
"愛には加減があるなんて 誰も教えてはくれなかったのに"

この曲の主人公は、鈍感なんだろうか不器用なんだろうか、はたまた昔の僕のように無知だったのか、サボテンに水をやりすぎてしまう。それと同時に、誰かに対する「愛」の制御に戸惑っている。程なくして、主人公はこう語る。

"溺れて枯れた窓際の愛は 間違っていたのかな"

誰かを、何かを愛するということ。愛されること。それはとても尊く、かけがえのない人間の最大の感情表現である。それが故に、愛するという行動を繰り返し、仕舞いには依存したりされたりも常だ。暴走して、愛し方を間違えた挙句、失敗してしまうことだってある。主人公は、自らの愛の注ぎ方を間違えたのか、否定しようとしている。

では、正解はなんなのか。本当にあげるべき水の量は何ccで、どれほどなら愛を注いでも失敗しないのか。
結論だけ先に言うと、決まった正解などない。同じ花でも、ベランダの小さな鉢で育てているのか、庭のガーデニングなのか、はたまた花の種類はポピーなのか、マリーゴールドなのか、サボテンなのか、はたまた生きた植物なのか、観葉植物なのか。昨日雨は降ったのか、室内なのか、条件によって様々だ。
そして愛も同様である。誰を愛すのか、その誰かはどんな性格でどんな愛され方が好きなのか、またその誰かと自分はどういう関係で、今現在どんなムードなのか、条件は挙げるだけキリがない。

そんな正解もなにもないこの問いの、真理のようなものに辿り着いた「サボテン」の主人公は、こう述べる。

"溺れて枯れた窓際の愛は 間違っていなかった
丁度良さなんて分かっていても 愛は止まらなかった"

注ぎすぎた愛は、決して間違いではないと思えたのである。その根拠は、まさしく「注ぎ方の正解などない」からである。

小さい頃の僕は、花がより綺麗に、より早く咲いてくれるだろうという直感に似た感情とともに、花に枯れるほどの水をやった。「サボテン」の主人公も、止まらないほどに愛を注いだ。この行動はなんら間違いではない。たくさんあればあるほど満たされる。言うなれば、人間として当たり前で至極真っ当な思考である。
それより大事なのは、枯れてしまったという現実を受け止め、そこから学び、それでも水をやるということである。

サボテンの最後の歌詞である。

"必ず無駄には しないよ枯れたサボテン
いつかいつか 私の愛の花を咲かせよう"

人を愛すというのは、実に難しい。距離感を間違えたり、言葉選びに迷ってしまったり。その度に、そんな失敗の度に、強くならねばならない。
花が咲いて、私の愛が報われるために。


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