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Genesis09「ノアは農夫となり、ぶどう畑を作り始めた。彼はぶどう酒を飲んで酔い、自分の天幕の中で裸になった。」


神が心の中で思ったことを、
ことばにしてノアに告げることからこの章は始まる。
「生めよ。増えよ。地に満ちよ」から始まることばに、あれ聞いたことがあるな、と思った。

聖書をめくって振り返ると、創世記1章、アダムの誕生のときに同じことばが出てきていた。
そこでは、「地の全面にある、種のできるすべての草と、種の入った実のあるすべての木」を食物として与えられている。
だが、今回は続くことばは、それとは違った。
「生きて動いているものはみな、あなたがたの食物となる。緑の草と同じように、そのすべてのものを、今、あなたがたに与える。ただし肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない」

エデンのときは植物や果実だけが食物として与えると述べられており、今回は「生きて動いているもの」――つまり、動植物が食物として与えられているのがわかる。
これはエデン時代との大きな変化であろう。
現代の私たちもいろいろなものを食している。
生き物を食物とするこの新しい変化を思うと、本当にこの時に今の世界が始まったのだと改めて感じる。

ノア以降の世界は、エデンの園ではない。罪と血の流れる新しい天地創造。
だからこそ、神は動物を食物とする中で、人が人を殺すことのないように、戒めも与える。

「人の血を流す者は、
人によって血を流される。
神は人を神のかたちとして
造ったからである。
あなたがたは生めよ、増えよ。
地に群がり、地に増えよ。」

新しい神の命令。神との世界の始まり。
そして神は、大洪水では世界を滅ぼさないと約束し、その契約のしるしとして虹を立てる。

この9章は、契約の虹の章である。
今も私たちは虹を見るときに、神が私たちに約束した契約を想うことができる。

「すべての肉なるものが、再び、大洪水の大水によって断ち切られることはない。大洪水が再び起こって地を滅ぼすようなことはない。」
「わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それが、わたしと地との間の契約のしるしである」
父の葬儀の日、朝に葬場の窓から虹が見えたことを思いだす。
契約のしるしとされた虹が、今も見られることにどこか不思議な気持ちになる。


しかし今回、私の目にとまったのはノアのその後の出来事であった。
「さて、ノアは農夫となり、ぶどう畑を作り始めた。彼はぶどう酒を飲んで酔い、自分の天幕の中で裸になった。カナンの父ハムは、父の裸を見て、外にいる二人の兄弟にそれを告げた」

父親の酔っている姿を外にいた兄弟に伝えるカナンの父ハム。
だがそれを聞いたセムとヤフェテは、父の裸を見ないようにして、上着をかける。

その後、酔いからさめたノアは、「末の息子」が自分にしたことを知ってこう言う。
「カナンはのろわれよ。兄たちの、しもべのしもべとなるように」

本来であれば、読み過ごしてしまうかもしれない、よくわからないエピソードである。だが、IBSの醍醐味はここにあると言えるだろう。
しっかりと、深く、書いてあることと向き合い、読み解く。

疑問に思ったことは二つ。
なぜ、「ハムはカナンの父である」「カナンの父ハム」「カナンはのろわれよ」と、ノアの孫カナンの名がそれほどまでに出てくるのかということ。
そして、酔っぱらって裸で寝ているノアのことを兄弟に告げることは悪いことなのだろうか。ノアが恥ずかしい姿になっていることに問題があるのではないか、ということ。

そもそもハムは末の息子なのだろうか。聖書では「セム、ハム、ヤフェテ」と記されている。二番目に出てくる名前を「末の息子」とすることには違和感がある。
と、次章に「ハムの子らはクシュ、ミツライム、プテ、カナン」とあるのを見つけた。
末の息子というのは、ハムの末の息子である「カナン」を指しているのではないだろうか。そう考えると、カナンの名前がこんなにも出てくる理由がわかるような気がする。
もしかすると、酔ったノアの裸の姿を見つけたのは、カナンかもしれない。カナンが父ハムに伝えたのかもしれないし、カナンがしたことは父ハムの責任として書かれているのかもしれない。
なんにせよ、カナンが大きくこの出来事に関わっているからこそ、不思議なほどカナンの名が出てきており、ノアは「カナンはのろわれよ」と言ったのではないだろうか。

では、ノアが酔って寝ていたことはどうなのだろうか。良いことだとは決して思えない気がするが、ここではそれよりも、そのことを兄弟に告げて恥をかかせようとする者と、裸を見ないようにして父の尊厳を守る者の姿を見ることができるように思う。

ノアが酔って裸で寝ていたのは、自分の天幕の中である。それをわざわざ、喧伝することのほうがたしかに問題な気はする。

話をしていてウトウトされることや、だらしなくソファで寝てしまうことを、私はひどく嫌っている。自制がない姿に見えるからだ。
だが、その肉体的な弱さを指摘するよりも、それを見て“そっと上着をかける”ことはたしかに難しく、大切なことかもしれないと思い至った。
あるメンバーが職場でも、失敗をする人を責めてしまいたくなる気持ちを話してくれた。
私たちは、人の弱さを笑って指摘したくなる性質がある。そうやって、恥をかくことで変わってほしいと願っているのだとしても、それは呪いを受ける姿なのだ。

虹を見上げたときに、神との新しい契約を思い出すように。
人の弱さを見たときに、それをあげつらうことなく、尊厳を傷つけないこと。
それはたしかに祝福へとつながるだろう。それほどまでに難しいことでもあるのだ。

相手の弱さの良し悪しではなく、それを見たときに自分がどう振る舞っているのか。
それを問われた日であった。



©新改訳聖書2017


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