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生死に関わる苦しみを感じ続けてきた、私は

恋愛の苦しみなんて、どうとでも処理できるのだなあ、と感じている。

パニック障害、適応障害など、色々な「障害?」みたいなものを名付けられてきた私は、ある意味、苦しみへの耐性が尋常ない。
希死念慮を抱いたこともあったのだけれど、生死に関わる苦しみを長年抱いた人間として、恋愛による感情の波は「苦しい」とは思うのだけれど、「いつか消えるな(笑)」という楽観的な感覚を抱くことができる。

生死については、人間の本能が危機的な反応をする。
恋愛も、本能的な反応ではあるのだけれど、恋愛はなくても生きていける( ´∀` )

体を起こせないとか、呼吸ができないとか、発作で死にそうとか。
そういうのを日常的に感じ続けてきた私は、恋愛にまつわる苦しみはそりゃあ苦しいけれど、そのレベルには達さないので、ひょいっと乗り越えてしまう。解脱してしまうのだ。

体の苦しみを感じていた時、私はひたすらに自省をくりかえした。
「どうしてこうなったのか」「私はどうしたらいいのか」
生きるために、そうした。

恋愛の苦しみを感じていた時、私はひたすらに自省をくりかえした。多分、これが変なんだと思う。その時、私は贅沢だとすら感じていた。だって、贅沢じゃん…死にそうな身体的な症状はないんだもん!

世の中的に恋愛は嗜好品扱いされるから、こんな苦しみを感じるくらいなら、ポイって捨てるのかもしれない。
でも、私としては、病気と同じくこの心身の反応も「研究対象」である。

苦しい時。
それは、新しいことに気づくチャンスだ。
ピンチはチャンスというけれど、下がれば上がるしかない。何か新しいものを拾って、私は這い上がることができる。
新しいことを感じているのだもの、絶対に、何か私は新しいものを得られるでしょう?


恋愛的な、嫉妬とか、二番目の女的な苦しみとか。
そういうものを感じきった私は、その感情の原因が、「自己欠乏感」と「社会規範による刷り込み」であることに、気づいている。

自分は幸せになれない。満たされない。この人がいなければ。
そういう自分の力を失った状態は、ネガティブな感情の巣窟になる。
嫉妬というものは、嫉妬という感情を撒き起こした人のせいにしがちだけれど、違う。
自分に自信があれば、嫉妬なんてしないはずだから。

また、社会規範上、一対一の恋愛関係が最上とされており、そういう感覚が息をするように自分に染みついていることにも気づいた。
地球の他の地域、過去の歴史を辿れば、夫婦関係は一対一であるとも限らないのに。

そして、恋愛にまつわる感情のみでなく、その他の私の感情の源泉が、「自分が、自分とこの世界をどう捉えているか」「社会規範による刷り込み」だということを、確信した。


それを確信するに伴って、私が何故心身の具合を崩したのか、その理由がより明白になってきた。
恋愛からこんなことを知るだなんておかしいと思われるかもしれないけれど、感情の揺れ動きが激しいほど、学ぶことは多いのだ。
そうじゃないと、真剣に自省なんてしないでしょ?

恋愛の苦しみから結構解脱できたなあと思う私は、濃密な半年間を過ごしたと感じている。
本当、人生って、よくできてる!

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