愛について
相手を信じて、待っていられること。
わたしは、愛をそのように捉えています。
わたしが適応障害になった原因は、ある方に、自身の思想を押し付けられて、壊れてしまったからです。
それは決して"愛"じゃない。
彼は、歪んだ己のレンズでしか外の世界を見ることができず、己が犯したことにどうしても気づけないようです。
かわいそうだと思います。
彼自身は、己の思想の押し付けが"愛"だという世界で生きており、わたしは……ごめんなさい。かわいそうだと思ってしまいます。
今、体調を崩していても、わたしの方がよっぽどしあわせだと感じてしまいます。
『物事を認識する』ことほど、根源的で、困難なことを他に知りません。
ある方は、多数の同僚が彼の成果物を「良くない」と言っても、「良い」と譲らなかった。
ある方は、己の「愛」を押し付けて他者を壊してしまったけれど、その原因が理解できない。
人間はそれぞれの世界を持っていて、主観でしか物事を認識できません。
わたしだってそう。そういう気持ちで記事を書いています。
それぞれの人々の"三次元的"な世界を、いかに認識できるか。
人生は、ここにかかっているように思えます。
一方、世界が"三次元的"だと認識していない方もいて、そういう方はどこかで行き詰まってしまうのではないかと思います。
そして、自分自身を"二次元的"に見つめる以上、必ず、生きづらさがあるでしょう。
外側の世界の認識=内側の自分の認識
外側の世界に巻き起こることは、内側の自分の表現型です。
相手を信じて、待っていられることができない=自分を信じて、待っていられることができない
そういう方は、きっと、精力的に前に進んでいくでしょう。
成し遂げられることも多いでしょう。
ただ、しあわせに満たされるかという点で、わたしは杞憂を抱きます。余計なお節介だとは自覚しています。
自分に愛を注げるから、他者に愛を注げる。
自分を信じて待っていられるから、他者を信じて待っていられる。
世界の構造はわたしの目にはシンプルに見えるのに、多くの方と相違があるように感じることが多くあります。
だから、わたしは、すり合わせのために記事を書いています。
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