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2019年4月16日

[2019年4月16日に書いたもの]

私の住む街も桜が満開になった。
韓国の桜の木は若木でひょろりとして迫力に欠けると、韓国に住みはじめた最初の春から思っていた。

その年の今頃も、桜が咲きこぼれていた。

2014年4月16日。

その日、済州島に向かっていた旅客船セウォル号が珍島沖で沈み、修学旅行に出た高校2年生250人を含む304人の乗客が帰らぬ人となった。

私は、セウォル号に生徒や先生たちが乗った壇園高校の所在する安山市壇園区に住んでいる。セウォル号惨事が起きた後に引っ越してきたのだが、それは偶然でもあり、不思議な引き合わせでもある。

この街には、あの惨事で犠牲になった17歳たちと、その家族や友達の痛みが、そして惨事を取り巻く社会的亀裂がそのまま刻みこまれている。

息子を失ったあるお母さんが言った「桜が咲くと、枝をみんな折ってしまいたい」という言葉が胸に刺さって、私も桜を見てただきれいと思えなくなった。壇園高校の前にも桜並木があり、その道を修学旅行前の生徒たちがはしゃいで駆けていく。そういう風景がこの街に染みついている。

この5年でこの社会の何が変わったか。大きな話の前に、自分のありかたを振り返ってみる。

惨事が起きてしばらくは集会にも行き、ろうそくを灯し、何かできることはないか悩んだ。でも3年を過ぎるとどうしようもなくセウォル号は日々のさまざまな出来事に紛れていった。

4周年を迎えた去年の今頃、たまたま参加した「4.16記憶貯蔵所」主催の民主市民教育プログラムから、私はまたセウォル号に目を向けた。セウォル号に「新しく出会いはじめた」と言ってもいいかもしれない。

そこでのテーマは「記憶と記録」。「忘れません、記憶します」という言葉は、セウォル号惨事以降もっとも多く世にあふれた言葉だ。しかし、なぜ記憶しなければならないのか。

セウォル号の記憶は、ただ悲惨な事故を繰り返さないために、という教訓にとどまらない。「どうして救えなかったのか」。その、だれもが当然思う問いに、国は答えず何の真相も明らかにせず、責任を持つ人はだれも裁かれていない。真相を追求することは、韓国社会のひずみを根底まで掘り下げることにつながっていった。それだけに、セウォル号の事実を隠蔽したり歪曲し、もう記憶するな、忘れろと抑えこむ圧力も凄まじかった。

だから、忘れない、記憶するということは、それそのものが「戦い」なのだ。そして記憶を想起するために、記録が必要だ。記録をアーカイブし人々に伝えるという、表にあらわれにくい戦いを続けている遺族のお母さんたちや支援する人々と直接知り合い、はじめて知った。

セウォル号惨事から5年になるいま、当時隠ぺいされていた数々の証拠が出てきている。

政府という単位でそこまでして隠そうとした事実は何だったのか。どうして救えたはずの人々を救わなかったのか。

子どもを失った親たちの血を吐くような問いと闘いが、その後、政権交代までさせたろうそくデモにつながったと私は信じて疑わない。

でも、文在寅政権に代わってセウォル号に対する関心はむしろ薄れていっているようにも思う。本当はまだなにも明らかになっていないし、結局だれも責任を負っていないのに。

「忘れません、記憶します」というのは、静かに心にとどめておくということではない。真実に向き合い続け、事件の原因と責任を突き止めるという躍動的で活動的な行為だ。

それはセウォル号にとどまらず、被害者がきちんと賠償されていない社会的・歴史的事件に向き合う態度とつながると、最近つねに思う。

セウォル号の記憶の戦いを通じて目指すもの、そのほんとうに大切なことを、ある遺族の方はこう語った。

「だれも見捨てられない、隣りの人の困難さに気づける、みなが共に生きられる社会にすることです」。