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紅白まんじゅうと蛇と父の話。

東京の実家から韓国の家に戻ってくると、ほんの少しセンチメンタルな気分になる。

今回は、指を折って数えればさほど少ない日数でもなかったのに、ものすごくちょっぴりの滞在だったような気がした。
年末にコロナに罹ってキャンセルした帰省のリベンジだったから、前々から日程をとっていたにもかかわらず、出発前までなぜか気持ちがとても慌ただしかった。会いたい人も、食べたいものや買いたいものも、やりたいこともたくさんあったけれど、その予定組みもちゃんとできなかった。まあ、同居人つきの渡航だからそもそもそんなに自由時間はなかったけど。

それでも数日はゆっくりと、両親と一緒に過ごせたのは良かった。両親は婿である同居人氏がとても好きで、とくに父は酒豪の酒飲み相手ができたのが嬉しくて、二人で帰省すると毎回頼んでもいない酒をたんまり用意してくれる。(父は「前回はお前だけ帰ってきたからがっかりしたけど、今回はCさん(←同居人)が一緒だから嬉しいなあ」と非常にほがらかに言い切り、娘はやや複雑な気分になったのであった……)

今年、実家に帰るたびにチャレンジしようと思っている目標がある。父と母の人生の話の聞き取りをすること。ずっと前から考えていたけれど、結論からいえば、今回は失敗した。
というより、私が準備ができていなかった。隙あらば、試しに少しずつでも聞いてみようかと思っていたけれど、こればかりはちゃんと話を聞くつもりで時間を取って来なければ駄目だと、改めてわかった。

二人がまだしっかりと元気に話せるうちに聞いておかなければ、という焦りのような気持ちがある。ここ最近、身近な人々に起きた大小の人生の変化を見て、ますますそう思うようになった。でももっと正直にいえば、自分本位な目的のためかもしれない。

自分を含めた在日コリアンの話を、対外的に公に喋る機会が増えてきた。喋るたびに、話の底の浅さを自ら感じずにはいられない。自分自身の経験という狭い範囲から抜け出せていない話を繰り返しつつ、両親の物語についてもじつはきちんと分かっていないという事実を、いつも誤魔化しているような気がしていた。いつかはちゃんと聞いて記録しておかなければと、宿題のように感じていた。結局は、自分のために。

今回それができなかったのは、準備不足もあるけれど、そんな自分の焦燥感をなだめるための「聞き取り」を目的とした会話をするのは時間がもったいないと思った部分もあった。
父と母が覚えている韓国語を総動員して同居人氏に話しかけるのを捕捉して通訳してあげたり、ささいなことでケンカになりかける老夫婦を仲裁したり、スマホの使い方を根気よく教えてあげたりするのは、まさに今しかできない時間だから。

でも、構えていないときにふっとこぼれる逸話もあった。

父が不意に「小学校の頃さ、元日の次の日にきれいな服装で学校に行くと、紅白まんじゅうをもらえるんだよ」と話しはじめた。脈絡なく。
貧しかったはずの父でも正月くらいはきれいな服を着れたのか…と思っていたら、「でもアボジ(父)は豚の世話をしなきゃならないから、その日は学校に行けなかったんだよ」と続けた。ちなみに父が子どもの頃暮らしていたのは、東京都の多摩川沿いの村だ。
「豚の餌をやり終えたら同級生が下校しててさ。そのうちの一人がアボジん家まできて、ハイこれって紅白まんじゅうをくれたんだ。その子はウチにもよく遊びに来た子だったんだよ。でも変わった奴でね、へびが大好きで、よくポケットにへびをいっぱい入れてて(この話のあたりでのけぞる私)クラスのみんなが嫌がってたんだ」

……なんとも言えない話だ。

「でもウチには遊びに来るんだよ。そうするとウチのかあちゃんがイノムセッキヤ!って怒ってへびを捨てさせてたなあ」

なんてことないエピソードだ。その行間から、子どもだった父の様子や、朝鮮の人たちが集まって暮らしていた村の風景を想像する。
へびをポケットに詰めていた同級生はどんな子だったのか。どうして家にしょっちゅう遊びにきたのか。ほかの同級生たちは家に来なかったのか。父は晴れ着で登校できず豚の世話をして、紅白まんじゅうをもらって、何を思っていたのか。それは聞けなかった。

こういうのが大切、と思いながら、エピソードを心のノートのメモした。ただ、その後はひたすら飲むことに精を出してしまったので、覚えているのはこの話くらいだ。

いつかは、“私の目的を遂行するために”きちんとインタビューを申し入れるかもしれない。しなきゃいけない。でもとりあえず今回は、ぽろっと落ちた話を拾って持ち帰ってきた。