発症理由① 家庭環境

強迫性障害を発症した根底にある私の性格を形成したのは家庭環境にある。

これを書くことによって親からは悲しまれるかもしれないが、今から書くのが私の素直な感情。

私は小学生の頃、マンションに住んでおり、学校のクラスの3分の1くらいは中国系の家族の家が多い、そんな地域で育った。市営住宅が立ち並ぶ中、私の家はマンションに住み、ありがたいことに当日お金には困っていなかった。ピアノと英語を習い、書道も空手も和太鼓も習い…いろんなことを何不自由なくさせてもらっていた。正直、片親が多かったあの地域の中で両親共に揃っている家は少なかった。そんな中贅沢な暮らしをしていたのかもしれない。でも…

当時は気づいていなかったが、のちに気づく。
“私の家は幸せ”そう思わないといけない。恵まれてるのだから絶対に感謝しないといけないと。

幼少期の私にとってはお金よりも何よりもほしかったのは親からの愛情だった。もちろんもらっていなかったわけではない。たくさんもらって育った。毎年旅行に行った記憶も週末は父親の作る美味しいご飯を食べていた記憶も鮮明にある。

でも、学校に行く時は両親ともいない。学校から帰ってきてもおかえりと言ってくれる人はいない。ひとりぼっちだった。友達の家にすぐいく毎日。友達のお母さんがお菓子やご飯をくれる。なんだか違和感を感じていた。

親は仕事で忙しく、学校の宿題、提出物は全て自分で管理するしかなかった。この頃からあった症状が、確認行動。ランドセルの中をひたすら確認して忘れ物がないかチェックしていた。異常なほどに。そして完璧主義が形成されていく。

小学5年生の時には東日本大震災が。
当時、親御さんが続々と学校に迎えに来る中、私の家は誰が来るのだろうか、ずっとぼんやり考えていたあの頃を思い出す。姉が友人と来た時には安堵したが、同時になんだこの家は。そう思ったのは今でも忘れられない。

中学生になる直前に祖父の糖尿病とそれに付随してうつ病を発症してしまった祖母と一緒に暮らさないといけないことになり、近くの地域のニ世帯住宅に引っ越した。

同じ小学校の友達と一緒の中学に行きたかった。泣きながら親に訴えた日もあった。小学校の友人からはいろんな誤解を生んだ。でも引っ越すしかなかった。しかも隣町に。すぐ会える距離なのに中学は違う。これほど辛いことはなかった。入学式は誰も知らない状態。すでに出来上がってるコミュニティに入ることもできずずっと席に座っていたあの光景は今でも忘れられない。

そしてここで事件は起こる。中学2年の時だ。
姉は私の5つ上。大学生になり一人暮らしを始め実家から出て行った。私の家は大学生になったら一人暮らしをするという昔からの制度がある。そして、父親が九州に単身赴任となった。残された家族は、私、母、父方の祖父母。異様な空気が流れる家になり、私がどんな時でも笑っているしかなかった。その頃から感情を抑えるようになり、ピエロのように笑い続けたのだ。
これが感情失禁の始まりである。

高校は部活を1年ですぐ辞め、バイト禁止にも関わらずバイトでお金を貯め、推し活をしに東京に出る日々。母親に反抗できなかった少女の最大の反抗期は補導されるまで東京で遊ぶ。それだった。

母より大変と思ってはいけない。1番辛いのは親。毎日早起きして何人分ものお弁当と夜ご飯を作ってるその姿を見たら何も言えなかった。

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