七草にちかさんが救われてほしいという願い

シャニマスが怖いです。
twitterだと書ききれないので、思ったことをメモ代わりに書き残しておきたいと思います。
適宜、加筆修正していきます。

にちかさんはアイドルに向いていないのか

今までのアイマスをはじめ、アイドル育成ゲームに登場するキャラクターは、アイドルをやりたいと志していて、アイドルに向いていて、アイドルとして高みを目指そうと努力して、それが報われるキャラクターばかりだった。なぜなら、物語のキャラクターには物語を物語たらしめるだけの特別さが備わっているからだ。

しかし、シャニPがにちかさんに光るものを見いだせていない様子が繰り返し述べられ、にちかさんはアイドルに向いていない(と思われている)ことが強調されている。

シャニマスでよく使われる手法に次の様なものがある。プレイヤーから見たキャラクターの第一印象やステレオタイプな偏見を利用し、あえて一定の方向に誘導しておきながら、別の方向性を示すことでその人物像のより深い奥行きやグラデーションを浮かび上がらせる手法だ。夏葉さんがただの自信家お嬢様キャラではなく、自信や実践を裏打ちするために理論や努力を重んじる努力家であったことや、めぐるが単に明るく社交的なわけではなく、淋しさの解消や相互理解のためにそう振る舞っていたことはその一例だ。

このことからすると、にちかさんもまた、単にアイドルに向いていない訳ではないことになる。
私の解釈としては、にちかさんがアイドルに向いていないと思われているのは、にちかさんが自ら輝きを放っている訳ではなく、八雲なみの光を追い続けてそれを反射しているにすぎないと感じられるからではないか。最初のダンスからそうだったが、にちかさんは自分の価値を否定していて、身に付けて披露してきたのは全て八雲なみのものだった。にちかさん本来の魅力はまだ完全には発揮されていない。

プレイヤーがにちかさんを通してはづきさんや七草父、社長や八雲なみのことを考えていることからして、プレイヤーもにちかさん本人の価値を軽視していることの証左であり、にちかさんに反論することはできない。
だからこそ、余計な詮索をしたり、何かを捨象したりすることなく、救われることを祈り、黙って見ていることしかできない。

にちかさんには独特の茶目っ気やセリフ回し、キャラクター性などの魅力があることは明らかであるため、その魅力がこれから発揮されていくだろうと期待できるのが救いだ。

「向いていること」と「やりたいこと」と「できること」は違う

アイドルとして活動することがその人の人生をより良くする手段とは限らないし、唯一の手段でもない。これはリアルを生きている我々には自明だ。

シャニマスは、アイドルとして活動することがその人の全てだとはいっておらず、むしろ別の可能性を暗に示し続けながら、それでもキャラクターにとってアイドルをやることが良いことだと示しているように思う。

分かりやすいのがノクチルだ。4人はアイドルとして活動することに特別やる気があるわけではないが、それでもシャニPはノクチルに何らかの偶像性を見いだしている。これはノクチルにとってアイドルとは「やりたいこと」ではないが「向いていること」であるといえる。そして、シャニPは4人にアイドルをやらせようとしているわけではなく、アイドルをやることがノクチルの人生にとって有意義であることを示している。だからこそ、決まったことをやるだけではなく、何かをやることの意義や意味、それらを考えることの重要性を説いている。単にアイドルをやることではなく、考えることを「できること」にしていこうとサポートを続けている。
最も顕著なのは樋口で、樋口は浅倉を追ってアイドルをしていて、プロデューサーには牽制するようなやり取りをしているなど、アイドルを積極的にやりたいわけというわけではない。しかし、アイドルという仕事を続けていく中で自分の心に目を向けはじめ、シャニPを試すことで自分の成長の道しるべ足りうるかを確認していて、アイドルを続けていくことで自分を成長させようという希望のようなものが感じられる。つまり、4人にとってアイドルをやることに必然性はないが、4人の人生にとって有意義なことだといえる。

一方で、にちかさんにとってはアイドルをやることが人生で有意義であるとは必ずしも言えないかもしれないし、シャニPは偶像性を見いだせていない。しかし、それでもにちかさんはアイドルをやりたいと思った。「向いていること」とも「できること」とも分からないのに、「やりたいこと」にしてしまった。

さらに残酷なことに、にちかさんの「やりたいこと」には社長や八雲なみの過去、はづきさんの懸念、シャニPの責任といった因果が集まってしまった。進む道も戻る道も茨の道であり、どちらに進んでもアイドルをやる以前とは大きく変わってしまった未来が待っている。

にちかさんの血のにじむような努力が報われてほしいし、その努力を肯定できるように救われてほしい。にちかさんの魅力が発揮されるとすれば、それは努力や救いの先にあるのではないだろうか。シャニPが言うように、にちかさんに笑ってほしいと願っている。

アイドルという「靴」――「仮面(ペルソナ)」との相違

にちかさんがアイドルを志したのは、自分自身を変えたい、他の何者かになりたいという変身願望によるものなのではないだろうか。

八雲なみは「アイドル八雲なみ」という別の誰かになろうとして「靴」に自分を合わせようとしたが、その結果、靴を履いている自分を殺してしまった。にちかさんは自分を否定し、八雲なみの光を追い、八雲なみという「靴」に合わせることを目指している。にちかさんと八雲なみは悲しそうなところが似ているとシャニPが述べているのは、この自分の価値を否定してしまっているところにあると考えられる。このままではにちかさんも自分を殺してしまう。

シャニPは実力の上では優勝が難しいと考えている。しかし、優勝しなければこれまでの努力は全て水泡に帰してしまう。だから、神に祈るしかなかった。
もっとも、優勝したとしてもそれは八雲なみという靴に合わせた結果なのか、にちかさんの努力が実った結果なのかは分からない。にちかさんとしては八雲なみという靴の素晴らしさをより強く確信していくだろうし、それは同時ににちかさん自身を殺すことに近づいてしまう。にちかさんが八雲なみの悲劇を繰り返さないためには、にちかさんの努力そのものを肯定させることで、靴を履いているにちかさんを殺さないようにしなければならない。しかし、この努力がアイドルとしての輝きとイコールかといえば、それは分からない。

靴を履くことは仮面を被ることに近く、アイドルという偶像を纏うことの比喩といえる。
しかし、両者で決定的に違うのは、仮面には自分以外の別人を演じるだけの力があるが、靴にはそうした力はないことだ。
仮面は役者の顔を変えることで、役者の四肢を用いて役者以外の何者かの役を演じさせることができる。ただし、役者と役とは切り離されていて、役者が自らを何者かに変えてしまう必要はない。実際の八雲なみが完璧な人間でなかったように、普通の女性としての「八雲なみ」と輝かしい「アイドル八雲なみ」とは本来別の人格であるべきだった。
一方で、靴は自らの脚を着飾るだけに過ぎず、履いているのは紛れもない自分自身だ。「八雲なみ」が身も心も「アイドル八雲なみ」になろうとした結果、「八雲なみ」という自分を殺してしまうことになったように、「靴に合わせる」という表現には、自分を何者かに変えようという意思が感じられる。
つまり、「靴に合わせる」ということは、自分をより良く見せる道具が自分よりも魅力的であるという矛盾に耐えながら、そうした強い存在に打ち勝ち、「自分」という存在を示さなければならないということだ。

だからこそ、これからにちかさんが八雲なみという靴を履き続けるとしても、靴を履いている自分自身を肯定することができるようになってほしいと願う。

「輝く」ことは光を放つことではない

シャニマスでは、空や羽ばたくといった表現の他に「輝く」といった表現が使われている。

SHHisは、紹介文の「1000カラット」や動画のモチーフなど、宝石をイメージさせる要素がちりばめられている。
確かに、にちかさんのW.I.N.G.編は原石が磨かれて宝石になっていく話だと感じた。文字通り身を削り、多くのものを削ぎ落としながら、決められた小さい形へと磨かれていくのは、原石が宝石へと磨かれていく様子と重なる。そして、宝石は自ら光を放つわけではないという点も、八雲なみの光を反射させて輝いているにちかさんの現状と重なるところがある。「スパンコール・シャンデリア」という語からも、自ら輝いているわけではなく光を反射しているという意味が感じられる。
しかしそうだとしても、宝石がまばゆく輝いていて美しく、見る者を魅了することに変わりはない。

最後に

にちかさんのW.I.N.G.準決勝、決勝では感じたことのないプレッシャーを感じました。怖くて敗北コミュは見られていないです。
まさかsR樋口の浅倉とのやりとりで癒される日が来るとは思わなかった。
どうか救いがありますように。

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