そうか、10年たったのか(1)

 東日本大震災から10年が経った。
 私は当時23歳の新入社員、初任地として宮城県石巻市にある工場で働き初めてもうすぐ1年が経とうかというタイミングだった。
 初めての一人暮らし、東北には親戚もおらずほとんど足を踏み入れたこともなかった。友達との時間が何より楽しく、1人で楽しみを見つけることを知らなかった当時の私は、この極寒の地にはまず友人が1人もいないという事態に呆然とし、愚痴を言える相手がいないことに絶望し、気軽に友人と会って発散できる東京サラリーマン、OLの姿を想像しては「東京で働いてる奴らには負けねえ」という暗い情熱を燃やしながら働いていた。今思えば謎だが。
 一方で、丸の内OLには決して味わえないであろう家族的な付き合いや価値観に包まれ、どこに行っても娘や妹のように可愛がられ、心配され、休日は同じ会社の“兄“達に連れられて遊びに出かけ、社会人になったのに逆に若返ったような、遅れてきた青春のような日々も始まったところだった。
 泣いたり喚いたりしながらも時が過ぎ、ちょうど色々なことが回り始めた頃だった。

 経理の仕事をしていた私は、地震が来たとき翌月の損益予測を立てていた。
ずっと苦手だった直属の先輩とも、ようやく少しだけ距離が縮まり、業務の繁忙期も過ぎ、自分にとって石巻にきて初めての平和が訪れつつあり、珍しく穏やかな気持ちで仕事をしていた。

 当時、近いうちに東北に大きな地震がくるとは言われていたが、数日前に震度5の地震があり、ああこれがその大地震だったのかと思っていたので、3月11日に再び地震がきた時は、余震程度のものだと思っていた。
 揺れ自体はかなり大きく長く続いたが、大きな備品が倒れてくることもなく、建屋の外に集合して点呼をとり、念のため規則通りに避難場所に向かった。揺れは収まっており、もはや避難訓練のようなムード。談笑しながら場内を歩いて移動した。
 この日は社会人野球チームが全国大会の準決勝に進むという大舞台、応援のため工場幹部は多くが不在だった。隣の職場の上司であり、同じ社宅に住んでいて親戚のおっちゃんのような存在でもあった人に先導され、避難を始めた。
 会社の基幹工場であるこの工場は広く、出入口となる門までは職場から10分ほどかかる。正門を出る頃、地面に浅く水が溜まり始めていた。早目に避難するよう呼びかけられていたが、それでもよくある「数センチ」の津波、をイメージする程度だった。
 工場の社宅が集まる小高い山の中腹に到着し、これで解散かな、、と思いながら、最近距離の縮まってきた例の先輩と談笑しながら次の指示を待っていた。
「リュック空いてますよ〜」と、今までこの程度の突っ込みもできなかった先輩に気軽に話しかけられるのが嬉しく、嬉々としてリュックを締めてあげたのをなぜかよく覚えている。
 3月の石巻は寒く、そのうち雪が降ってきた。東北で大きい地震があったことはニュースになっていたので、両親に「地震があったけど大丈夫だよ」とメールをした。

 程なくして、「逃げろ」という声が聞こえてきて、訳がわからないまま目の前の斜面をよじ登り、より高台へ向かった。
 私は後ろは振り向かなかった。
 近くにいた同僚は、向かってくる黒いものを見ていたようだ。

 そのまま、高台の頂上にある中学校へ向かった。
 避難する途中で、先輩はおそらく石巻にいるのであろう彼女に電話をしていた。きっとその彼女は石巻が地元の人で、家族も石巻にいるのだろうと思った。

 津波がきたことと、何か大変なことになったとは感じていたものの、どんなレベルのことなのか、津波が来たというのがどういう事態なのか、その時点では全くピンと来ていなかった。
 中学校の校庭で待機していると、夕方になって私が姉のように慕う先輩がやってきた。仕事で港に行っていて、ぎりぎりのところで帰ってこられたという。急に、身近な人の命が脅かされるレベルのまずいことが起きているという実感が湧いた。
 その日、同じ職場と隣の職場の女性がたまたま休みをとっていて、一緒にいなかった。
 職場の女性は息子の卒業式だった。隣の職場の女性は足が悪かった。同じ職場の女性は、健康のことから彼氏のことまで常に心配してくれる母のような存在だったし、隣の職場の女性も毎日顔を合わせている、身近な人だ。社会人野球の試合では、かっこいい旦那さんと並んで仲睦まじく観戦しているのが印象的だった。
 2人とは連絡が取れなかった。
 
 

 
 



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