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乃木坂46を見つめて

私は一時、乃木坂46のファンであった。

初めて乃木坂46を正確に認識しその存在を受け入れることができたのは『命は美しい』という曲だったと思う。それ以前に『制服を着たマネキン』『ガールズルール』『バレッタ』といった楽曲はなんとなく知っていたもののあまり興味も湧かず、私にとっては雨後の筍の如く湧いて出る数多のアイドルグループのひとつといったものだった。

『命は美しい』最初に見聞きしたのはPVだったと思う。それは女のみに宿る力強い美しさとそれゆえの儚さといったコントラストが感じられるものだった。アイドルグループに散見されるハツラツとした可愛さを売りつけるような印象はなかった。同曲は元メンバー西野七瀬が初めてセンターに選出されたシングル曲である。彼女は身体の線が細い。映像加工にもよるのだがしかしその線は消え入るすんでのところでぎらりと鮮明に存在し私を捉えた。後になって気付いたがこの曲は同グループのなかにあってもなかなか異色の雰囲気を漂わせているものであった。この妖気漂う楽曲と映像に私はすっかり魅了されてしまった。


命は美しい
初めて気付いた日から
全てのその悲しみ
消えて行くんだ
永遠ではないもの
花の儚さに似て
その一瞬一瞬が
生きてる意味


この曲にあのダンスがのる。アイドルグループに許されたマスゲーム的な振り付けは功を奏している。センター西野は華奢でありながらその実、大胆にずぶりと地面から突き出て足の下に太い根を這わせているのではないかという威風堂々たるしかし僅かな憂いを感ぜられるたったひとときの女が発する独特な妖気を感じるものだった。
彼女はその時点から圧倒的に輝きはじめたのかもしれない。のちにそれ以前の彼女を観たがやはり何かを欠いていた気がする。それは彼女がどうこうできたものではなく『命は美しい』という曲により初めて花開するようあらかじめ設計されていた、長い寒気を乗り越え春をじっと待ちこれを以てようやく咲くことを許された花であった。
あの時をから西野七瀬は多くの人々に認識されたと私は思う。

以降、私は乃木坂46そのものに興味が湧きテレ東で今も続く番組をよく観ていた。よく観ていたのだ。メンバー達が若さと初々しさを遺憾なく発揮し芸人がそれを上手くまとめる手法は同局における欅坂46(現櫻坂46)と日向坂46の番組にも反映されている。シングル曲が発表される度にセンターは誰か、それを同番組内で順番に発表していくことがあった。当時の私の妻とそんな場面を一喜一憂しながら観たものだった。元妻は同じように彼女たちを観るようになり「かわいいね。ライブ行こうよ。」と言うようになった。結局それが実現する事はなく時が経つと色々な事と共に終わっていった。

西野七瀬は乃木坂46を卒業した。
今もYouTubeにアップロードされている紅白歌合戦出演時の『帰り道は遠回りしたくなる』を観る。この曲は彼女にとって卒業前のラストシングル、そしてラストセンター曲である。
何故だろうか、センターだからなのか、皆ほとんど同じ衣装を着て同じダンスをしているのに彼女は冒頭の振りからして他メンバーと何かが決定的に違う。あの小さな顔を前方へ向き残したまま腕を大きく廻し身をひるがえす。その仕草は誰よりも美しく可憐で儚かった。スカートのすそ端々は水を得た魚の如く生き生きと跳ねた。スカートの模様は残像と共に観るものの心をただ一点、西野七瀬に集中させた。カメラは確実に彼女だけを捉えていた。振り付けや曲は彼女のためにあった。細い腕は彼女の儚さと強さを表現するための道具であった。一つ一つの動作が何にも代え難く誰にも真似できないその瞬間の彼女の魅力を伝えた。

彼女の卒業自体、個人的にはあまり意識することがなかった。特に感慨深くもなくその終わりをただ観ていたように思う。今回この様な文章を書く気になったきっかけは同グループメンバーであった白石麻衣の卒業、また西野卒業から白石卒業、そして今日へ至るまでに感じたことがあったからだ。そして白石麻衣の卒業ライブを観た頃からずっと思っていたこともあった。

白石麻衣の卒業ライブはネット配信のみで行われた。新型コロナウィルスの影響によりスターメンバーであった彼女の卒業さえこのような形になってしまった。視聴にあたり私はアルコールと幾つかのツマミを用意して卒コンに備えた。回線トラブルにより時間が押したりしながらもやきもきと彼女たちを待った。
そうして卒コンが終わると正直なところ私には何も感じられなかった。ただ何かが足りないと思った。白石麻衣や演出が悪いそういった事ではなかった。むしろ私は白石麻衣が好きだ。YouTubeにある彼女のまとめ動画を観るのが好きだ。バラエティ番組内で苦手な爬虫類を目の前にしてわきゃわきゃする彼女はとても愛おしい。可愛いのイデアであり彼女はそのイデアに相応しいと思う。Cawaiiは作れない。しかし物足りない、というより違うと思った。ただそこに西野七瀬が居ないという事が私のなかの乃木坂46を物足りないものにしていたとこの時初めて気づいたのだった。

私にとっての乃木坂46は西野七瀬の覚醒と卒業までだった。彼女の居ない乃木坂46にはただのアイドルグループという印象しか残らなかった。誰が悪いとかそういったことではなく、キーとなる人物の去就はどうしようもない終わりの気配を吐くようになる。次期センターは誰かといった動向はやはりどこか無理矢理な印象を受ける。あのAKB48も前田敦子の卒業以降あきらかに求心力を失っていった。栄枯盛衰、誰かが何の因果か必然か、突然花開き多くの人が魅了されてしまう瞬間というものが偶像崇拝つまりなんてったってアイドルという例えようのない文脈で語られるのであろう。

命は美しい、花の儚さに似て。


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