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2020.7.16 教科書が教えない「沖縄戦」の真実~住民・大本営・米軍が見た"沖縄戦"~

もし皆さんが「沖縄戦」と聞いて「捨て石にされた悲惨な戦い」と思ったのであれば、今回の記事はその見方をガラリと変えてくれるものになるかと思います。

今回はGHQのせいで語られることのなかった日本兵の視点・大本営の視点・そして敵国・アメリカ兵の視点から、沖縄戦を改めて捉え直してみました。
「悲惨だった」という感情的なお話ではなく、世界視点から見た沖縄戦の真実をご覧下さい。

沖縄戦(1945年3月~6月)
島の中で、これから激戦であり、死闘の3ヶ月が続きます。
結論から言いますと、1945(昭和20)年3月26日からアメリカの攻撃が始まって6月23日頃に終結します。

戦闘が終わって、日本兵の強さ、一般市民の強靭さに感動して畏敬の念を持ったのはアメリカ兵です。
アメリカの将軍や将校たち、そして一兵卒も日本兵の強さ、一般市民の強さに感動しました。
こういった記憶がアメリカにはいっぱいあります。

女子供は竹やりを持って突っ込んで行き、男子は爆弾を抱えて突っ込んで行きました…。
まず悲惨な話が最初になりますが、14~17歳の若さで少年兵として戦場に立った「鉄血勤皇隊」。
数は1,780人です。
ナチスドイツの最期の時もボーイソルジャーと言われた少年兵が出てきました。
今でいえば中2~高2あたりでしょうか。
そんな年端もいかない少年たちが爆弾を抱えて、突撃してくるアメリカの戦車の下に入っていきます。
そこで爆弾を爆発させて戦車を動かないようにします。
これで、ちょうど半分の少年兵が戦死します。

今でいう女子中学生、女子高生で結成された「ひめゆり学徒隊」「白梅学徒隊」が看護婦として戦場を走り回って、消毒したり包帯を巻いたりと、傷ついた日本兵の看護をします。
しかしここは戦場で、アメリカ兵も必死です。
アメリも沖縄を落とさないと、日本への攻撃は上手くいかない。
皆さんよくご存じのように、ひめゆり学徒隊の半分以上は戦死します。
そして10人ほどが先生と共に、ガマと呼ばれる自然洞窟で自決します。
白梅学徒隊も同じように半数近くが戦死します。

今でこそ、一般市民も巻き込まれたと言われていますが、当時はそんな雰囲気ではありません。
日本兵も沖縄の住民も必死で、外へ出たらアメリカ兵に殺されます。
3ヶ月もの間、こういった猛烈な戦いが続きました。
アメリカ兵が後になって言った言葉を紹介します。
「ドイツのナチス軍は俺たちアメリカ人の持ってる武器より遥かに勝れた武器を持っていた。そして勇敢に戦った。しかし、ドイツ国内攻防戦と沖縄の日本兵の攻防戦を比べると、日本兵が圧倒的に強かった」

「もう比べ物にならない。ナチスの兵隊よりも物資の無い中、男たちも女たちも遥かに強靭だった。」
と、戦争終結後のアメリカ兵士の記事から出てきました。

沖縄戦で戦死した日本兵と沖縄住民の戦死者の数はいろいろありますが、約3ヶ月で20万~24万になります。
アメリカ兵は1万5千人です。
ところがアメリカ兵は、沖縄で物資も何も無く日本兵は相当弱っているから、30日で制圧できると考えていました。

アメリカ兵が最初に沖縄へ上陸した場所は中部に位置する読谷村です。
ここから北と南を分断していきます。
しかし、山や谷を越えるたびに日本の反撃に遭います。
アメリカは沖縄に何百両もの戦車を投入し、そのうちの100両ほどは大砲の代わりに火炎放射器を搭載させました。
兵士が火炎放射器を背中に抱えて攻撃するよりも10倍以上の威力もあるこれらを使って、洞窟基地を焼き払いました。

よくテレビのドキュメンタリーなどの映像を見ると、こんな戦いをするアメリカ軍に勝てるわけがないのが分かります。
ところが延々と日本の抵抗が続きます。
アメリカの指揮官たちは怒り狂うのと恐怖を同時に受け、日本がまだ負けないことを信じることができませんでした。

日本は天才的ともいえるトンネルを洞窟から地下道を作るためにいっぱい掘っていたので、アメリカが攻めていって占領したと思ったら、日本兵が洞窟基地内に設置した砲台に後ろから攻められました。

しかし、次から次へと村は落とされていき、ある村は住民ともども全滅します。
けれども、日本兵は南へ南と逃げていきます。
特に南へ行ったのは沖縄に住む人たちです。
アメリカは、武器を持たない一般市民が逃げた場所は放っておこうとしていました。
ところが、アメリカのニミッツ提督ら司令官は
「全部やってしまえ」
と命令し軍を出撃させましたが、日本軍が隠れていたところから猛烈な砲撃や銃弾を浴びせられ、指揮を取っていた指揮官を戦死させてしまうほどでした。
そうなると、アメリカ軍もボスの復讐だとばかりに凄まじい勢いで反撃に出ます。

こういった戦いが日夜繰り広げられ、日本軍は得意としていた夜襲を仕掛けます。
アメリカ軍が沖縄戦に55万の兵を投入したのに対し、日本軍は11万人でした。
11万人がほぼ全滅し、沖縄の住民や戦争に携わった人9万~10万人の人が亡くなりました。
日本人が沖縄でどれだけ熾烈を極めたかがよくわかります。

アメリカは順次、新兵を送り込んできましたが、新兵らは蟹股で歩く日本人を猿と蔑み、イエロー・モンキーと侮蔑していました。
しかし、その新兵たちに激怒したのは先に戦いを経験した小隊長、中隊長、大隊長でした。
ある隊長は
「バカヤロウ!何言ってやがる。お前らすぐに撃ち殺されるぞ!」
と怒鳴り、周りはシーンとなったそうです。
アメリカ兵のほとんどは人種差別で戦いに来ていましたが、1ヶ月経っても、2ヶ月経っても落ちない、落ちないどころか少年兵まで出てくる始末。
よく見れば若い少女が戦場で死んでいる…。
こういう子たちまで戦うのかと…。
アメリカには少年や少女を使って戦うといった少年兵の発想はありません。

そして先述しましたが、少年兵の鉄血勤皇隊は半分が戦死しました。
戦争の中で戦死者が50%というのは非常に数値が高いです。
少女も死んでいき、少年も死んでいきました。
当時、沖縄を守る日本軍の総指揮官は牛島 満中将でしたが、牛島はこれだけ戦い負けていくのを見て最期は自決します。

拙生も半分沖縄の血が入っているので敢えて言いますが、平成から令和の時代に入った今現在もなお、沖縄の人たちは本土に対し異常な不信感を持っています。
その第1例が、日本は本土を守るために沖縄を捨て石にしたのか?
ということですが、これは間違いなく捨て石にしました。
沖縄は捨て石と呼ばれますが、沖縄の一番大きな役割は時間稼ぎでした。
アメリカ軍を1箇所に集中させて、その間に本土は防衛の準備をするという計画でした。
若い少年少女さえも戦いで死んでしまった沖縄戦ですが、もし日本が勝っていたら、20万人の亡くなった兵士や住民たちも含め、みんな今頃は英雄になっている人たちです。
戦争に負けると、捨て石とか犠牲にされたりといった話になりますが、皆さん、それは今だから言えることで、当時に置き換えれば、沖縄も日本軍も守るのに必死でした。
もちろん悪い話はいっぱいあります。
しかし、良い話もいっぱいあります。
ただ、激戦が繰り広げられた大きな戦争なので、一緒くたにされてしまっているのです。
もちろん悪い軍人もいました。
しかし、犠牲になって現地の住民を守り通した日本兵もいます。
戦争末期の沖縄では地上戦と空中戦と海上戦の全てがありました。
しかし、日本海軍の軍艦は零戦が護衛に来てくれず、空からの守りがありませんでした。
あの有名な戦艦大和も菊水作戦と呼ばれる特攻作戦によって、連合国軍の侵攻を阻止するために他の艦と共に南下しますが、アメリカの数百機の爆撃機と戦闘機に囲まれ、空からの爆撃になす術なく、1945年4月7日、日本の神々に見放されたかのように海へ沈んでいきました。

しかし、地上の沖縄ではまだ戦っています。
日本の将兵がいなくなるまで戦い続けました。
ですので、沖縄が落ちた時の捕虜は非常に少なく、捕虜というよりもかき集められた一般市民が収容所に入れられていきました。
ましてや、軍人で捕虜になった人はさらに少ない状況でした。

とにかく、アメリカは日本の将校を全員撃ち殺しました。
捕まって将校だと分かるとその場で銃殺し、墓穴にならない穴に放り込まれました。
時は大戦と言われる戦争です。
アメリカ軍もひょっとしたら沖縄を取れないんじゃないか?
と思わされるほど必死の戦いでした。
特に最初の1ヶ月、そして2ヶ月目は苦しみました。
3ヶ月目にようやく敗残兵狩りを行ったという戦争でした。

この沖縄戦があまりにも凄かったので、アメリカは本土決戦の時に九州に上陸するか、四国に上陸するかを議論していました。
沖縄で物資も無くこれだけ一般市民も一緒になって戦う国です。
九州や四国に上陸するのではなく、沖縄のように日本海側に回り込み福井や鳥取といった場所から分断して本土上陸をした場合、アメリカはどれくらいの被害が出るのかを計算したところ、その数400万人の将兵が戦死するだろうという算出結果になりました。
とてつもなく大きい数です。
沖縄のような小さな島で1万人以上が戦死して大動転したアメリカです。
沖縄での抵抗がいかにアメリカ軍にインパクトを与えたか、結果、アメリカは本土決戦を諦めました。
ではどう攻めるのか?
そう、皆さんがご存じの原爆攻撃がここで出てきました。
そして、本土への2度の原爆投下をもって日米大戦はようやく終結しました。

「お国のために」と命を投げ打った子どもたち。

日本海軍の象徴で世界最大の戦艦大和ですら、決死の覚悟で沖縄に送り込んだ大本営。

日本人の狂気ともいえる戦いに畏敬の念を抱いたアメリカ兵。

そして、本土上陸を諦めたアメリカ軍。

「捨て石にされて悲惨だった」
という見え方が少しずつ変わり、新しい沖縄戦が浮かび上がってきたのではないでしょうか?

70年以上の時が経ち、毎年のように追悼式が行われるにもかかわらず、現代の私たちには、こういった戦時中の真実を知る機会はほぼありません。

なぜか?
答えは簡単です。
戦勝国アメリカ・GHQが、歴史を都合のいいように書き換えたからです。
凄まじい戦いを見せた日本人を恐れて、アメリカは二度と日本が歯向かわないよう武器を奪いました。
そして、日本人を「精神」から破壊させるために、教育を徹底的に作り変えました。

命がけで国を守ろうとする祖先の存在ほど恐ろしいものはない。

そう考えて、先人の勇姿が決して語り継がれることのないように教科書から消し去り、日本兵の勇敢さが本土決戦を諦めさせたなどということは一切教えませんでした。

その代わりに、
「戦争は絶対に繰り返してはならない」
「平和が一番だ」
と教科書でも、ラジオでも、テレビでも戦争の悲惨さや“平和主義”で洗脳しただけでなく、
「日本は世界に侵略戦争を仕掛けた“悪”だ」
という自虐史観までをも埋め込みました。

もちろん、GHQに消し去られた祖先の勇敢な姿、戦時中の事実は沖縄だけに留まりません。

神風特攻隊に先駆けて、若い命が投じられた水上特攻 人間魚雷「回天」。

あまりの食糧不足に「餓島」とすら呼ばれたガダルカナル島の戦い。

硫黄島やサイパンといった民間人をも巻き込んだ各地での壮絶な戦い。

さらには、

悪魔の“原爆投下”が進められた背景、自虐史観教育では決して語られないアメリカ軍の残虐行為、日本進軍の矛先をアメリカ・イギリスに向けさせた共産スパイの存在、「リメンバーパールハーバー」だけではない世界的な反日プロパガンダの実態など、数え上げればキリがないほどで、ほんの7,80年前の自国のことなのに知らされていない真実が溢れています。

「日本は敗れて悲惨な道を歩んだ…」
ということは教わっても、この戦争はなぜ行われたのか。
この戦争から何を学ぶべきなのか。
といった、未来を良くしていくための考える材料は奪われたままです…。

私たちは長い間、
「戦争なんてするものじゃない」
と思考を停止させられ、GHQが作った枠の中で、ずっと生きてきたと言っても過言ではないかもしれません。

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