2024.4.4 【全文無料(投げ銭記事)】歴代天皇共通の祈り
皇室は祈りでありたい
「皇室は祈りでありたい」
とは、上皇后陛下のお言葉ですが、そのお言葉通り、上皇・上皇后両陛下が深々と頭を下げていらっしゃるお姿を私たちは何度も目にしてきました。
例えば、2015年10月1日、両陛下は東日本豪雨の被災地を訪問され、鬼怒川の堤防が決壊して、濁流に飲まれ死亡した男性が発見された場所に向かって、冷たい雨が降る中を傘を閉じて深々と頭を下げられました。
両陛下が被災地で黙礼される姿は、東日本大震災でも阪神淡路大震災でも見られました。
また、同年4月に訪問された先の大戦の激戦地ペリリュー島では、両陛下は西太平洋戦没者の碑と米軍慰霊碑に供花され、黙祷を捧げられました。
ついで海を隔てたアンガウル島に向かって、ほぼ90度に頭を下げられ、戦死した約1200人の日本軍将兵の冥福を祈られました。
戦地・戦災地でのお祈りは、広島、長崎、沖縄、硫黄島、サイパンと続けられてきました。
しかし、天皇の祈りは、こうした国民の目に触れるものだけではありません。
皇居内で御自身がお出ましになる儀式だけでも、年間30回ほどもあります。
国民の知らない所で、陛下は静かに国家と国民の安寧を祈られているのです。
新嘗祭の折などには、祭祀が深夜に及び…
天皇の祈りには、神主のような装束で深夜や早朝に何時間も掛けて行われる儀式もあります。
例えば、11月23日の新嘗祭。
天皇が五穀の新穀を天地の神々にお供えし、御自らもそれを食して感謝するという儀式です。
夕方から始まる儀式が終わるのは午前1時頃になりますが、黒田家に嫁がれた紀宮(清子)様のご幼少の頃に御用掛を務めた和辻雅子さんは、次のように記しています。
11月23日は現在、勤労感謝の日で、我々は休日の一つくらいにしか考えていませんが、その日に陛下は深夜まで、国民を養う五穀を戴いた事に感謝の祈りを捧げられているのです。
お正月の初日の出の前にも、天皇はお祀りをされています。
午前5時半からの「四方拝」、その後に「歳旦祭」が行われます。
平成17(2005)年の歳旦祭に、上皇陛下は御歌をこう詠まれいました。
寒気の厳しい元旦に、庭に降り積もった雪に篝火が赤く映えているという幻想的な光景ですが、そう詠われた上皇陛下は暖房もない宮中三殿で、神々に国家と国民の安寧と豊作を祈られたのです。
私たちも正月には神社仏閣へ初詣でをして神仏に礼拝しますが、天皇の祈りはそれとは比べものにならないほどの激務なのです。
国民の幸福を願う祈り
天皇の祈りが我々と違う点がもう一つあります。
皇學館大学の松浦光修教授は、こう記しています。
歴代の天皇も国民の幸福を祈られてきました。
今上陛下で126代となる皇室はずっと一系で繋がっていますが、その皇統を通じて祈りの伝統が継承されてきました。
歴代の天皇が、どのような御心で祈りの伝統を護られてきたのかを紹介していきます。
神武天皇の祈り
天皇の祈りは、初代の神武天皇からすでに始まっています。
神武天皇は、
「天地四方、八紘にすむものすべてが、一つ屋根の下の大家族のように仲よくくらそうではないか」
と言われて即位されたのですが、その4年の後、そのような国が出来た事を神々に感謝しています。
そして、祭壇を大和の国の鳥見山の中に設置され、先祖の神々にお祭りをされました。
これが現在も続く皇室祭祀の始まりと言われています。
「天からお降りになり」とは、天照大御神が孫の瓊瓊杵尊に、
「宜しく爾皇孫、就きて治せ」
と命じて、高天原から地上に下らせたことを指しています。
神武天皇はその曾孫にあたります。
古代日本語での
「しらす(知らす、治らす)」
は、
「領く(領有する)」
とは厳格に区別され、
「天皇が鏡のような無私の御心に国民の思いを映し、その安寧を祈る」
という意味でした。
したがって天皇が先祖の神々に“孝行”をするということは、
「民が幸福に暮らせる国を」
という、先祖神から与えられた使命を果たすことなのです。
政治の前に神の祭りを
大化の改新が行われた大化元(645)年、右大臣となった蘇我石川麻呂は、第36代孝徳天皇に次のような進言をしたと『日本書紀』に記されています。
「政治の前に神の祭りを」
というのは、民の幸せを願う先祖神の御心を思い起こした上で、それを現実の政治の中に具現していかなればならないからです。
古来、“政治”を「まつりごと(祀り事)」と読んだのも、この意味からでした。
「政治の前に神の祭りを」
の伝統は、その後も継承されていきました。
平安時代中期に、“寛平の治”と称えられる政治を行った第59代宇多天皇の日記には、こう記されています。
“神国”とは「神々が護る国」という意味でしょう。
そして、その神々が民を護らんとする御心を現実の政治に伝えるのが、天皇の役割なのです。
平安時代には皇居の清涼殿(天皇が起居される建物)の東南の隅に『石灰の壇』が設置されていました。
これは板敷きと同じ高さまで床下の土を築きあげ、その上を石灰で塗り固めた場所である。
天皇は毎朝、起床されると体を清め、そこで祈りを捧げられました。
土を固めて壇を作ったのは、太古より続く“大地の上で祈る”形を継承したものであり、東南に設けられたのは、天皇の先祖神である天照大神が祀られている伊勢神宮の方向にあたるからです。
この毎朝の祈りは『毎朝御代拝として、現代まで受け継がれています。
毎朝、天皇陛下の代理の侍従が宮中三殿にお参りし、その間は天皇陛下も“おつつしみ”になっています。
天皇たるもの朝から夜まで、神を敬うことを怠けてはなりません
鎌倉時代に倒幕を図った承久の乱(承久3(1221)年)に加わって佐渡へ配流となった第84代順徳天皇は、乱の起こる以前には王朝時代の有職故実の研究に熱心で『禁秘抄』を著しました。
その中に、次の一節があります。
これも
「政治の前に神の祭りを」
と同じ精神です。
戦国時代の天文9(1540)年、世間で疫病が流行しました。
第105代後奈良天皇は、長く続いた戦乱の余波で経済的にも困窮されていましたが、民のために秘かに般若心経を写経し、醍醐寺の三宝院に収められました。
その末尾にはこう記されています。
“民の父母”とは、まさに親が子の幸せを祈るように、国民の幸せを祈る天皇のあり方を指しています。
自分の子が不幸になったら、親は自分を責めるでしょう。
国民の不幸は自分の徳が足りないからだと、つらい思いをされる天皇の姿勢もそれと同じです。
かならず神事の予定を第一にされて
歴代天皇の祈りは、近代に入ってからも変わらずに継承されています。
明治天皇が初めて静岡の御用邸に入られた時、
「伊勢神官は、どちらの方角か?」
「賢所は、どちらの方角か?」
と、お尋ねになられました。
伊勢神宮や宮中三殿の方角に、自分が背を向けて起居しないようにとのお考えからでした。
方角をお知りになった天皇は、
「それでは、こうしなければならない」
と机と椅子の位置を変えられました。
昭和天皇の侍従を務めた甘露寺受長氏は、こう書き記しています。
「天皇陛下は、日々、私どもの幸せのために祈ってくださっている…」と知れば…
こうして見ると、天皇が国民の幸せを祈るのは皇室の伝統そのものである事が見てとれます。
松浦教授は、こう語ります。
人は誰かが自分の幸せを祈ってくれていたら、嬉しく思い、自分も他の人々のために役に立ちたいと願います。
一人の利他心が多くの人々の利他心を呼び覚ます。
天皇が国民の幸せを祈る大御心を知った人々は、政治家なら国民のための政治を行い、実業家なら国に役立つ事業を興す。
それが波紋のように広がって、国民一人ひとりが他の人々のために尽くすようになる。
まさに国民が一つ屋根の下の大きな家族のように、互いに思いやり助け合う姿、日本はそのような理想を実現すべく建国されました。
そして歴代天皇はその理想を継承して代々、無私の祈りを捧げてきました。
我が国では、そのような皇室が国民の連帯の中心にあり、国民統合の象徴となっているのです。
最後までお読み頂きまして有り難うございました。
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