2023.5.24 【全文無料(投げ銭記事)】一流経営者が大事にするもの
『感謝、幸せ、恩返し』こそ成功への道。
今回は、晩夏に90歳で永眠された稲盛和夫氏の著書『成功の要諦』から、稲盛氏を支えた人々、そして氏が人生に懸けた想いを書き綴っていこうと思います。
人を動かすのは利益ではなく大義
「人を動かすのは利益ではなく大義だ」
とは、現代リーダーシップ論の旗手サイモン・シネックの言葉です。
彼は2千万人もの人が見たインターネット講演録で、ライト兄弟の飛行機開発を例にこう述べています。
20世紀初頭、飛行機の開発を夢見て多くの挑戦が行われていました。
その中で、サミュエル・ピエールポント・ラングレーは、成功の本命と目されていました。
彼は米国陸軍省から多額の資金を提供され、その資金にものを言わせて、当時の最高の頭脳を集めていました。
ニューヨーク・タイムズは、いつ成功するかと彼を追い回していました。
しかし、成功したのは無名のライト兄弟でした。
彼らは自転車店の僅かな利益を開発資金とし、兄弟を含め、彼らの協力者の誰も大学を出ていませんでした。
もちろん、ニューヨーク・タイムスの注目も浴びていませんでした。
ライト兄弟の成功の要因は何だったのか。
彼らを動かしていたのは、
「飛行機を発明すれば、世界が変わる」
という大義、理想、信念でした。
ライト兄弟の夢を信じて、そのチームは血と汗と涙を流しながら、一心に働きました。
一方のラングレーは、利益と名声のために働いていました。
その証拠に、ライト兄弟が人類初の飛行に成功した途端に、彼は開発を投げ出してしまったのです。
リーダーがこれでは、スタッフはいくら高給で雇われても、心の底から頑張ったりしなかったでしょう。
『世のため人のため』という経営の大義
サイモン・シネックの数十年、数百年も前から、我が国日本の偉大な経営思想家や一流の経営者たちは、大義によって自分を励まし、他者を鼓舞してきました。
江戸時代の石田梅岩、二宮金次郎、明治大正の渋沢栄一、豊田佐吉、昭和の松下幸之助、本田宗一郎、盛田昭夫、等々。
これらの人々は、『世のため人のため』という大義を掲げ、それにより多くの人々を導いて、偉大な業績をあげてきました。
現代日本で、この系譜に連なるのが、昨夏に逝去された稲盛和夫でしょう。
京セラ、第二電電(現KDDI)の創業者、最近では日本航空(JAL)の再建を果たした現代日本を代表する経営者であったと共に、経営思想家としても多数の著書を発表しました。
稲盛氏の著『成功の要諦』は6つの講演を集めたもので、極めて分かりやすく氏の経営哲学が語られているが、その第6講『運命を開く道』では、氏が世に出るまでの生い立ちを通じて、その思想を身に付けた過程が語られています。
学生や若手社会人の方々にも是非読んで頂きたい内容ですので、本記事ではその触りを紹介したいと思います。
氏のメッセージを要約すると、『感謝、幸せ、恩返しが成功への道』ということで、これは日本の伝統的な経営哲学に通ずるものです。
氏が現代社会でも大きな成功を納めたということは、サイモン・シネックの言を待つまでもなく、日本の伝統的な経営哲学が21世紀の現代社会においても十二分に有効である事の証左であると言えます。
和夫君をどうしても中学校に入れてやってください
稲盛氏は、自分の前半生は“悲惨”だったと言っています。
戦時中、鹿児島で小学生だった稲盛少年は、いたずらばかりしているガキ大将でした。
小学校卒業と共に名門旧制中学を受験しますが、勉強もしていなかったので不合格。
中学に行けない生徒は、国民学校の高等科で2年学んでから就職というのが一般的な進路でしたので、その道に進みました。
昭和19(1944)年暮れ、風邪を引き、ずっと寝込んでいましたが、医者に診て貰うと、なんと結核の初期症状。
当時、結核は死に直結する病で、医者は、
「安静にして、十分栄養を」
と言いますが、戦争末期、食糧難の最中では栄養補給もままなりませんでした。
年が明けた昭和20年、小学校の担任だった土井先生が、空襲の中を家まで訪ねてきます。
何事かといぶかる両親に、土井先生は、
「和夫君をどうしても中学校に入れてやってください」
と頼みました。
さらに、願書まで提出してくれていたのです。
試験当日は、防空頭巾を被って、
「和夫君を借りていきます」
と、熱の残る手を引いて、名門鹿児島一中の試験会場まで連れていきました。
しかし、そんな体調では受かるはずもなく、二度目の不合格。
稲盛少年は、
「もう中学校に行くのは諦めよう」
と思います。
鹿児島でも、しょっちゅう米軍の空襲があり、さらに結核の身では将来の希望を持てる状況ではありませんでした。
しかし、土井先生がまた家にやってきて、
「鹿児島一中は受からなかったけど、鹿児島中学という私立校がある。何としても中学校に行きなさい」
と。
稲森少年の両親も、
「この子は病気ですから、中学校には行かせないつもりです」
と言いますが、先生は願書を出してくれていて、
「受付は終わっているから、必ず試験に行くように」
と聞きません。
土井先生の厚意と善意のままに、稲盛少年は鹿児島中学を受験し、何とか合格できました。
土井先生が願書を出してまで勧めてくれなければ、間違いなく稲盛少年は国民学校高等科卒で就職していました。
氏は自著で、こう振り返っています。
<小学校時代の同窓会に顔を出しますと、小学校を卒業し、市バスやタクシーの運転手になった同級生や、実家の食堂を継いだという同級生に出会い、昔話に花が咲くことがあります。
私も田舎でそのような人生を送っても、なんらおかしくなかったのです。
今日があるのは、土井先生のおかげだと強く思い、今も心から感謝しています。>
大学進学に両親を説得してくれた辛島先生
昭和20年春、旧制中学に進学しましたが、敗戦により新制高校に進みます。
卒業を迎える頃になり、貧乏人の子沢山の家だったので、長兄と同様に、地元で就職しようと考えていました。
ところが、クラス担任をしていた辛島政雄先生が家にやってきて、
「稲盛君は学校で一、二の成績だし、就職するのは惜しいですよ。苦しいでしょうが、大学で勉強をし、好きな道に進ませた方がいいと思います。ぜひ考え直して下さい」
と、就職を希望する両親に説きました。
学資についても、
「大学で奨学金を貰い、アルバイトをすれば何とかなる」
と、渋る両親に熱弁を揮いました。
その結果、大学を目指すことになりましたが、志望していた大学は落第、地元の鹿児島大学工学部応用化学科に進学することになったのです。
そして大学の4年間、懸命に勉強をします。
氏は、当時をこう回想しています。
<もし、辛島先生がわざわざ家まで訪ねてくださり、両親を説得してくださらなかったとすれば、やはり今日の私はなかったに違いありません。>
あちこち駆けずり回って就職先を世話してくれた竹下先生
いよいよ大学を卒業する頃は、まだ戦後10年で、しかも朝鮮戦争終了後の不況で、就職先がなかなか見つかりませんでた。
特に地方大学の出身者には、思うような会社に就職することは大変難しい状況でした。
指導教授だった竹下寿雄先生は大変心配して、あちこち駆けずり回って、漸く京都の松風工業という碍子製造会社を紹介してくれました。
しかし、大学では有機化学を専攻していたので急遽、磁器、即ち無機化学を勉強しなければならなくなったのです。
そこで半年間だけ粘土鉱物の研究に携わり、ハロサイトという結晶を発見するなど、半年間の成果を卒業論文としてまとめました。
卒論の発表会で、新たに着任した内野正夫先生の目に留まります。
東京帝国大学応用化学を出て、満洲で軽金属製造を指揮するなど、第一級の先端技術者として活躍していた人でした。
内野先生は、
「あなたの論文は東大の学生よりも素晴らしい。あなたはきっと素晴らしいエンジニアになりますよ」
とまで言ってくれたのです。
絶対にパキスタンに行ってはなりません
松風工業に就職してからも、内野先生は鹿児島から東京に出張する度に、京都駅に停車する時間を電報で知らせてくれ、その都度、僅かな停車時間中に、いろいろな研究上のことや人生面でアドバイスを授けてくれました。
パキスタンから松風工業に実習に来た青年が、母国で碍子を作っている大きな会社の御曹司で、
「ぜひパキスタンに来て欲しい」
と何度も誘われます。
この件で内野先生に相談すると、こう言われています。
<絶対にパキスタンに行ってはなりません。
せっかくここまで高めてきた技術を、パキスタンで切り売りすれば、数年後に日本に帰ってきたときには、エンジニアとしてのあなたは使い物にならなくなっているでしょう。
あなたがパキスタンにいる間に、日本の技術は日進月歩で進んでいくはずです。
ぜひ日本で頑張り続けなさい。>
このままパキスタンに行っていたら、中途半端なエンジニアで終わっていたろうと稲盛氏は述懐します。
後に内野先生は鹿児島大学を辞めて、ある会社の東京研究所の所長となりますが、稲盛氏は東京に出張する度に先生を訪問し、新製品や新規事業の技術的アドバイスを受けたり、大学研究機関への紹介をお願いしたりしました。
我が師
松風工業に入社して3年ほど経った頃、新しい研究テーマについて経営幹部と意見が合わなくなり、会社を辞めることになります。
それを機に、元の上司とその友人たちが、“稲盛和夫が研究開発した技術を世間に問うための場”として、新しい会社を作ってくれたのです。
これが、今の京セラの前身です。
元の上司が、大学時代の同級生である西枝一江さんを紹介してくれます。
西枝さんが初めて稲盛氏と会った時には、
「こんな若造が?」
という反応しか示しませんでしたが、何度も通い詰めて、ファインセラミックスの可能性を繰り返し説いていくうちに、
「やってみるか」
と言ってくれるようになったといいます。
そして、自分の家屋敷を担保にして、1000万円の開業資金を用意してくれたのです。
この西枝さんの支援があってこそ、京セラを創業できたのです。
西枝さんは経営の在り方から酒の飲み方まで、実に多くのことを教えました。
会社の状況を報告する度に、京セラの成長を我が事にように喜んでくれたのです。
ある時、京セラを上場させようと思って西枝さんに相談します。
上場により、大株主である西枝さん自身が相当の利益を手にすることができるので、喜んで頂けると思っていたところ、
「そんなことはやめなさい」
と言われます。
「訳のわからない株主に経営を左右されるような上場などするべきではない」
と言うのです。
<それほど、欲のない、心の美しい方でした。
今も、そのお姿を思い返すとき、私は心の底から、「我が師」と呼ばせていただきたいと思います。>
と私は語っています。
感謝、幸せ、世のため人のため
自分の前半生を稲盛氏はこう振り返ります。
<悲惨な前半生が続いていましたが、松風工業に入り、研究に打ち込み、その成果をもって、京セラという会社をつくっていただく頃になりますと、自分の人生を振り返って、今あるのも、様々な方々との出会いと助けがあったからだとはじめて思えるようになってきたのです。>
『感謝』の念が湧き起こってくると、自分の『幸せ』を感じ始めるようになりました。
すると、さらに他の人々の幸せをも願うという気持ちが自然に湧き出てくるようになってきました。
京セラが20代の若者中心にできた時、仲間で作った誓詞血判状には、
<世のため人のために尽くす>
という言葉を盛り込んでいました。
<京セラがスタートすると、そのできたばかりの会社をどのように経営していけばよいのか、私は大変悩みました。
8人の仲間が集まり、20人の従業員を採用し、28名で会社を創業したのですが、経営を誤り、会社を潰せば、大変なことになります。
せっかく集まった従業員たちを絶対に路頭に迷わせてはならない。
そのために、私は「誰にも負けない努力」を払うことを心に誓い、今日まで必死に働いて参りました。>
この稲盛氏の姿勢と、それに共感した多くの人々が京セラ、KDDI、日航の成功を実現したのです。
稲盛氏の説く『成功への要諦』を一言で言えば、
「感謝、幸せ、恩返し」
ということになるでしょう。
そもそも稲盛和夫という人物を育てた人々も、『世のため人のため』と思って、その成長、成功のために尽くしたのです。
それに感謝し、幸せに思った稲盛氏が、今度は恩返しとして『世のため人のため』に尽くしました。
稲盛氏の説く『成功の要諦』は事業の成功だけでなく、人々が互いに感謝し合う、幸せな社会を築く道なのです。
最後までお読み頂きまして有り難うございました。
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