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2022.4.12 ロシアのウクライナ支配を始めた2人の皇帝の正体

昨日に続き、今回もロシアとウクライナの歴史を書き綴っていこうと思います。

ウクライナ人の愛国主義者たちは、コサックこそが自分たちの民族の原点であると主張します。

しかし実際には、ウクライナ・コサックは一部を除いて、ほとんどが17世紀末にロシア帝国に屈しています。

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ロマノフ朝のピョートル1世は、ウクライナ・コサックと大規模な戦争をし、大砲の火力でコサックの騎馬兵を打ち破ります。

ピョートル1世は、ウクライナをロシア帝国に編入すると共に、コサック兵をロシア帝国の軍隊に編入します。

こうして、ロシアのウクライナ支配が始まります。

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18世紀後半、女帝エカチェリーナ2世は黒海方面へと進出し、オスマン帝国からクリミア半島を奪います。

クリミア半島は黒海の制海権を握る上で重要な戦略拠点でした。

ロシアがクリミア半島を得たことでウクライナ支配が確立し、北のバルト海と南の黒海を繋ぐ物流動脈が形成され、交易が活発になり、国力を急速に増大させます。

因みに1773年、エカチェリーナ2世は、ガザフスタン地方のコサック首長プガチョフの反乱を鎮圧し、中央アジア北部をロシアの支配圏に入れます。

ウクライナは、ピョートル1世とエカチェリーナ2世によって従属させられました。

そのため、ウクライナ人は、
「我らを拷問したピョートル1世、我らに止めを刺したエカチェリーナ2世」
と二人の皇帝を形容します。

そして、ピョートル1世はウクライナ語を禁止します。

ウクライナを『小ロシア』とする呼び方は、この時に定着します。

『小ロシア』は、ウクライナをロシアの従属地域とする蔑称としての意味が込められています。

後の世のエカチェリーナ2世もウクライナ語禁止政策を引き継ぎ、帝国の行政統治をウクライナに徹底し、ロシア化を推進していきます。

ウクライナから中央アジア北部に分布していたコサック勢力はロシア人によって支配されますが、彼らの勢力は完全に消滅したわけではありませんでした。

コサック集団は、中央のロシア帝国に不満を持つロシア人やウクライナ人、モンゴル人などの非ロシア人の逃亡先となり、帝国の辺境に在って、半ば独立した勢力となっていました。

ロシア帝国も彼らに対しては簡単に手を出すことができず、半ば自治権を認めていました。

そのため、コサック集団もロシア正教に帰依し、税を帝国に納めるなどして、一定のレベルで連携をしていたのです。

ウクライナは肥沃な穀倉地帯で、小麦を豊富に産出していました。

ロシア人はウクライナ人を農場で強制労働させます。

ロシアには、『農奴』と呼ばれる奴隷的な農民階級があり、多くのウクライナ人が農奴に貶められて搾取され、差別されたのです。

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ウクライナ人はロシア人に監視され、行動を制限されていました。

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ウクライナ人の民族運動が活発化しますが、ロシア帝国は出版や新聞の言論を厳しく統制し、反抗的な者を容赦なくシベリアへ流刑にしました。

この頃から、ウクライナ人たちは自分たちをロシア人と区別するため、『ルーシ』の呼称を改め、『ウクライナ』を用いるようになります。

『ウクライナ』は中世ルーシ語で、『国』という意味があるとされます。

しかし、ロシア人は『ウクライナ』を『国』とは解さず、『辺境』という意味であると主張しています。

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