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じぶんを愛するということ

題名に惹かれて手に取ったこの本を読みました。この本についてまとめていきたいと思います。

【多重人格】

多重人格者は一体いつから現れたのだろうか。その歴史は浅く、1980年代に初めてアメリカで正式な病名として認められている。

ではどうして多重人格者が増加したのか。それはメディアのによるものである。どういうことかというと、家庭内暴力等のトラウマによりPDSDに苦しむ人が注目を浴び、それによって私もそうであると声を上げる人が増加していった。そのうちその人々を観察していく中で多重人格という現象が発見されていった。

では日本ではどうなのだろうか。1990年代から数千という単位で増加していきました。何故か。そこには一種の憧れが存在し美化されているのではないか。

多重人格は選ばれし者

多重人格になれたら、今の自分を超える素晴らしい自分がいるのかも知れない。今の私にはできないことが出来る私がいるかも知れない。そんな気持ちがあるのではないだろうか。

【ストーカーとアダルトチルドレン】

ストーカーが流行った背景には、「われわれの内なるストーカー」があったと考えられる。この「われわれの内なるストーカー」とは何か。

現代社会は他者との交流を求めている一方で、コミュニケーションが曖昧である状態に耐えられず、相手の気持ちがよく分からないまま切り捨ててしまう。この切り捨てた時点で、相手の理解できない行動=ストーカーに変えてしまっている。つまり、ストーカーとは自分の中から生み出された概念であるのではないかということ。

次にアダルトチルドレンという言葉を知っていますか。これは元々はアル中の夫と、それを介抱する妻を持つ子供が、両親どちらにもかまってもらえずに育つ。そうして大人になった時にその子供において共通した心理的特徴が現れる(生きにくさ)ことをさし、アダルトチルドレンオブアルコホーリックスという名称がつけられていた。

それが今では私も私もと増加して、アルコールではなく仕事中毒の両親や親子関係で傷ついた人など多くの意味を持つようになった。

問題はそこではなく、私はアダルトチルドレンなんだ。と安心してその先に進まないことにある。

多重人格・ストーカー・アダルトチルドレンこれらの言葉は急速に広まっている。それは「もうひとりの私の可能性」「私さがし」の流れが人々を引きつけているのではないだろうか。

【癒しの正しい選び方】

病気や苦しみを治す行為として「癒す」という言葉が、宗教の世界で精神的・肉体的な痛みや病苦からの解放を「癒し」という名詞形で用いるようになった。現在においての癒しはマインドコントロールに近いのではないか。事実であろうかなかろうが、その人にとってプラスに働けば関係ない。それがビジネスとして成り立っている。

私さがしをしている人に、この組織に入れば・・・、教祖に会えば・・・と悪人が近寄ってくることで本当の私が見つかるのではと期待を抱き飲み込まれてしまう。

【アイラブミー?】

小さい子供が○○できた!ねぇすごい?みてみて・・・この時に適切な愛情が注がれないと、自己愛が満たされずどんどん肥大化していってしまう。大人になっても誇大自己愛を持ち続けて生きていくこととなる。

僕が一番、僕は特別であると信じているならば幸せなのではないか。実は、私が一番だと思い続けなければならないのは苦しいことである。なぜなら何の根拠もなく、肥大した自己の根拠を求めようとするからだ。その後、今度は外側の世界に理由を探そうとし始める。

ある人は恋人にしがみついたり、ある人はアダルトビデオへの応募・・そうして肥大な自己愛の証明を行っている。

ではどうすればこの「自分さがし」の迷路から脱することができるだろうか。まずは自分探しをしている人間の心の仕組みを汁ことから初める。いま探しているのは、本当の私ではなくて、肥大な自己愛なのではないか。

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