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アラスカの端で夕日を見たら、涙が流れるままに凍った

3月5日

私はあるイヌイットの街へ向かうため、フェアバンクス空港にいた。アメリカ最北のアラスカ州、そのさらに北端。正式名称はウトゥキアギヴィク、通称をバローという。先住民族イヌイットのうちイヌピアック族が住民の過半数を占める小さな街だ。

アラスカの中心にあるフェアバンクスから一度まっすぐ北上してプルドーベイへ。そこからさらに北西に飛んで、バローへ。それぞれ1時間前後のフライトだからそう遠くはない距離である。学生の貧乏旅としては夜行バスでも探したいところだが、陸路が存在しないため飛行機に乗るしかなかった。道が埋もれるほどの豪雪地帯にぽつりと存在する「陸の孤島」なのだ。

私がそんな小さな街を知っていたのは、そこが両親の新婚旅行の地だったからに他ならない。ハネムーンと言えば南の国でのバカンスが定番だろうが、彼らは物好きだった。そして娘はしっかりその血を受け継いだ。知ってしまったからには行きたい。せっかくアラスカに行くのだから端まで行きたい。秘境に、端に、私は一人で行く。そのことに私はすっかり陶酔していた。

しかし飛行機が飛んだ数十分後、酔いはスーッと音を立てて冷めた。なにしろ地面が真っ白なのだ。飛行機の小さな窓から見える外界がどこまでもどこまでも白く、まったくもって何もない。私はとたんに不安になった。こんな地の果てに本当に街があるのか。本気で、心の底から疑った。寒すぎて雲もできない透明な空気。その下に広がる氷の大地。私は一体どこに向かっているのか。何が待っているのか。怖かった。

そして緊張感が頂点に達して眠りに落ちた。矛盾しているようだが私にはよくある自己防衛だ。よくできた体だとつくづく思う。しかし山で遭難するなどして「寝たら死ぬぞ」の場面になれば、私は真っ先に死ぬのだろう。やっぱりポンコツかもしれない。


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ゴトン、と着陸の音がして飛び起きた。着いた。アラスカの北端、氷の世界。ついに来てしまった。感傷に浸る間もなく空港に入る。ロビーと事務室だけの小さな建物で、中は混んでいた。誰かの迎えと思しき母子はネイティブだろうか。その顔立ちには文字通りの親近感を覚えざるを得ない。そして母親のワンピースはひときわ目を引く鮮やかな緑色、一方の私は自分を倍にしたような重い紺色の防寒具だった。そういえば周りに旅行客らしき人は少ない。みな顔見知りの様子で格好も軽やかだ。彼女はやさしい表情できょろきょろとする私に微笑みかけてくれた。

外に出る。ネックウォ―マーに顔をうずめながら辺りを見回すと、そこにはたしかに街があった。道があって、家があって、少しだけ店らしき建物もあった。そこかしこを雪が覆い、電柱には垂直に張り付き、車には布団となってかぶさっていた。地面も屋根も吐く息も、やっぱり白くて、その上には朱色の夕空が広がっていた。

予約したホテルは空港の目と鼻の先。ひとまずチェックインする。広々としたダブルのベッドを見て、少しだけ、誰かと一緒だったらなと思った。バックパックを下ろして一息。肉厚な一人掛けソファに座る。しかし沈み込む間もないうちに、落ち着かなくて立ち上がった。さっきの夕空の続きが見たい。ものすごく見たい。見ないといけない。そんな衝動に駆られた私は、最小限のものだけポケットに詰め込んでホテルを出た。

夕陽を追って西に歩く。この街は北向きに飛び出した小さな半島だから、西側は海だ。きっと美しい景色が待っている。私は少しずつ暗くなる空に急かされて、前のめりに歩いた。電柱を1本越えるたびに、夕空にかかった電線が1本ずつ減る。線が入らない空が見たい。早く見たい。ただただその一心で、私はほとんど走っていた。目が潤んだ。涙となってこぼれた。冷たい。しかし体はどんどん火照り、息は一層白くなった。

電線はあと3本。2本。そして最後の1本。

視界が開けた。それはシンプルな世界だった。空が広がり、凍った海とあいまいに接する。間に埋もれた太陽がそれぞれを朱色に染めた。他には何もない単純で美しい世界。その中で私は声をあげて泣いた。理由はわからない。ただ涙がまつ毛の間で凍り付いて、まばたきがしづらい。私はただ一人、アラスカの端っこで泣きながらしばらく立ち尽くした。


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心が満ちた。来てよかった。真っ暗になる前に帰ろうと振り返る。東の空はもうすっかり夜になろうと決め込んでいた。くすんだ青色の空気のなか、積る雪の白さを横目に私はまた急ぎ足で宿へ戻った。



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