過去のある時期について書こうとなって、最初に思いついたのは母のことだった。母がベロベロに酔って帰ってきて、玄関で叫んでいる。私は部屋で寝たふりをするけれど、彼女は怒鳴る。「寝てるの⁉︎」「起きてるんでしょ!」それでも無視して寝たふりをする。布団をかぶって、目が腫れないように注意しながら涙を垂らす。そんなことがよくあった。
生きる意味というのは、必要な人もいれば無くたって問題ない人もいる。私の母はたぶん前者で、その欄には「仕事」がすっぽりと収まっていた。「辞めたい」が口癖で、それでも辞められない理由がたくさんあって、ほんとうに大変そうだった。そうしている間に彼女は駆け足で昇進し、辞められない理由は増えつづけた。そして私は、目の前から逃げるように遠くへ思いを馳せた。
中学一年生の夏休み、私は祖父母とインドネシア旅行をした。ジャカルタに住む祖母の知人の世話になり、その人が暮らしているホテルに私たちも泊まって一週間ほど過ごした。ホテルは真っ白で綺麗で、背が高かったと記憶している。しかし町に出ると世界がまったく違った。まだスラムという言葉も知らない私には、訳の分からない怖そうなところに見えた。乗っている車が信号で止まると、自分とそう変わらない年齢の女の子が物売りに来る。しかもよく見ると弟か妹を背負っている。当時の私には衝撃的な光景で、うまく言葉にできなかったけれど、このままにすべきではないと思った。とはいえもちろん、なんの手立ても持たず、違和感だけを持って帰った。
大学生になると、私は夢のために本格的に動き出した。ジャーナリズムの授業を受けて、フィリピンを支援する学生団体にも入った。支援地に滞在するための20万円は大金だったけれど、躊躇った記憶はない。そうして行った支援地は子どもたちの笑顔でキラッキラの、眩しい場所だった。私が来ることを喜んでくれる。私が行くことに意味がある。そう信じることができた。私は5回のフィリピン滞在を経験し、ジャーナリスト志望をやめて国際協力に関わろうと決めた。そのために今度はカンボジアでインターンをして、給料も休日もないのによく働いた。ここに私の生きる意味があって、それは結局、仕事中毒の母と同じ状態だった。
結局カンボジアでの1年間は辛かった。何度も帰りたいと思った。そして最後に得たのは、これが大いに自己満足の活動だという気付きだった。でも同時に、そんなお節介が少しは彼らのこれからに繋がっていくかもしれない。彼らの人生に選択肢を増やせたかもしれない。いろんな可能性があって、それで万々歳なのだ。そう認めてからの私は強かった。自分の学びたいことをとことん学んで、たくさんの人と関わって、自分の小さな欲望を日々少しずつ叶えていった。帰国してからの1年は、間違いなくそれまでの人生で一番楽しい日々だった。
そうして私は大学を卒業し、就職し、少し経ってから実家を出た。職場は実家からも通える距離だったけれど、自分のための居場所を作りたいと思って自分で部屋を借りた。好きな色、好きな手触り、好きな香りで包まれる空間。好きなものを並べて好きなように料理して、好きな歌を口ずさむ。楽しくて、少しだけ寂しくて、それで涙が溢れたら気の済むまで泣きじゃくることができた。これはとても幸せなことだった。
私だけの、歪で彩り豊かな世界