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つかむ

過去のある時期について書こうとなって、最初に思いついたのは母のことだった。母がベロベロに酔って帰ってきて、玄関で叫んでいる。私は部屋で寝たふりをするけれど、彼女は怒鳴る。「寝てるの⁉︎」「起きてるんでしょ!」それでも無視して寝たふりをする。布団をかぶって、目が腫れないように注意しながら涙を垂らす。そんなことがよくあった。

母は働き者だ。残業で帰りが遅いことも、飲み会で終電後になることもある。海外出張に行くことだってある。そういうとき、たまに友だちの家で晩ごはんを食べさせてもらう。泊めてもらって、次の日そのまま学校に行ったこともある。友だちといられるから楽しい。でもこのあいだ、仕事終わりの父が「いつもすみません」と言いながら迎えにきた。これは確かにふつうじゃないって、分かっていたけれど、すみません、なのか。

生きる意味というのは、必要な人もいれば無くたって問題ない人もいる。私の母はたぶん前者で、その欄には「仕事」がすっぽりと収まっていた。「辞めたい」が口癖で、それでも辞められない理由がたくさんあって、ほんとうに大変そうだった。そうしている間に彼女は駆け足で昇進し、辞められない理由は増えつづけた。そして私は、目の前から逃げるように遠くへ思いを馳せた。

私の本棚には、環境問題に関する本がたくさんある。漫画で説明された温暖化や森林破壊、干ばつ、砂漠化、オゾンホール。人間を悪者のように描いた視点。それから叔母に借りたキング牧師の本は、差別という言葉を教えてくれた。叔母は戦争という言葉も教えてくれた。そういうことを知ったとき、私は悲しいような圧倒されるような気持ちになる。なぜ人は環境破壊をやめられないのか。戦争や差別がなくならないのか。ほんとうに人間は不思議な生き物だと思う。

中学一年生の夏休み、私は祖父母とインドネシア旅行をした。ジャカルタに住む祖母の知人の世話になり、その人が暮らしているホテルに私たちも泊まって一週間ほど過ごした。ホテルは真っ白で綺麗で、背が高かったと記憶している。しかし町に出ると世界がまったく違った。まだスラムという言葉も知らない私には、訳の分からない怖そうなところに見えた。乗っている車が信号で止まると、自分とそう変わらない年齢の女の子が物売りに来る。しかもよく見ると弟か妹を背負っている。当時の私には衝撃的な光景で、うまく言葉にできなかったけれど、このままにすべきではないと思った。とはいえもちろん、なんの手立ても持たず、違和感だけを持って帰った。

今まで私の将来の夢は、イルカの研究者だった。でも最近、自分は文系だと気付きはじめている。それに自分は、人と関わる仕事の方が向いているかもしれない。今度の面接のために将来の夢をはっきり決めねばと思って、考えて、思い出したのがインドネシアのスラム街だった。あの光景、あの世界をもっとみんなに知ってほしい。そのために生きようと思う。だから私の将来の夢は、世界の不条理をたくさんの人に知ってもらうジャーナリスト。

大学生になると、私は夢のために本格的に動き出した。ジャーナリズムの授業を受けて、フィリピンを支援する学生団体にも入った。支援地に滞在するための20万円は大金だったけれど、躊躇った記憶はない。そうして行った支援地は子どもたちの笑顔でキラッキラの、眩しい場所だった。私が来ることを喜んでくれる。私が行くことに意味がある。そう信じることができた。私は5回のフィリピン滞在を経験し、ジャーナリスト志望をやめて国際協力に関わろうと決めた。そのために今度はカンボジアでインターンをして、給料も休日もないのによく働いた。ここに私の生きる意味があって、それは結局、仕事中毒の母と同じ状態だった。

カンボジアに来ました。ここから1年間、現地の中高生とよりよい社会の仕組みをつくっていきます。まだ始まったばかりなのに、改善したほうが良いと思うことが毎日あって、でもそれが私のいる間に決着するわけではなくて、どうせいなくなる部外者の意識に逃げそうです。でもそれでは何も変わらないので、目の前にある問題の1つ1つにアクションを起こしていかなければなりません。ていねいに向き合ってよく考えて、自分がいなくなるからこそ一層の責任を持って行動する。そのことを忘れずにいたいと思います。

結局カンボジアでの1年間は辛かった。何度も帰りたいと思った。そして最後に得たのは、これが大いに自己満足の活動だという気付きだった。でも同時に、そんなお節介が少しは彼らのこれからに繋がっていくかもしれない。彼らの人生に選択肢を増やせたかもしれない。いろんな可能性があって、それで万々歳なのだ。そう認めてからの私は強かった。自分の学びたいことをとことん学んで、たくさんの人と関わって、自分の小さな欲望を日々少しずつ叶えていった。帰国してからの1年は、間違いなくそれまでの人生で一番楽しい日々だった。

ちょっとドキドキしながら書く。ずっと言いたくて言えなかったことを、この年の瀬に。やっとやめられた嫌な癖。またいつ言えなくなるか分からないから、勢いに任せて急いで書く。私は過食嘔吐をしていた。もう食べたくないのになぜか食べて、苦しいし太りたくないから吐く。たとえば近所で買ったパンを貪りながら帰って、寮に着くなり吐く。もう食べたくないのになぜか食べて、トイレに駆け込んで吐く。でも幸か不幸か、誰にばれることもなく生活できて、ただヤケ食いして吐くという絶妙なバランスで、それなりに長らくやってきてしまった。5年ほど続いた。でも、変わるときは突然だった。先月のはじめに、過食が、ふと、やんだ。私は過食をしなくても大丈夫になっていた。この一年の楽しさとたくさんの学びが私のなかに染みわたったからだと思う。年末年始は食べることが多くなるからまた吐くかもしれないし、それは怖いけれど、でも、それでもいいと思うことにする。そうやって揺れている感じが、生きていると思える。


そうして私は大学を卒業し、就職し、少し経ってから実家を出た。職場は実家からも通える距離だったけれど、自分のための居場所を作りたいと思って自分で部屋を借りた。好きな色、好きな手触り、好きな香りで包まれる空間。好きなものを並べて好きなように料理して、好きな歌を口ずさむ。楽しくて、少しだけ寂しくて、それで涙が溢れたら気の済むまで泣きじゃくることができた。これはとても幸せなことだった。

いろいろあったけど、そこからこうやって自分の人生をつくって、自分を幸せにする選択肢を掴んで、積み重ねてきて、ほんとうに頑張ったなって思う。もちろん周りの人に恵まれたことは大きい、運が良かった。でもわたしも頑張ったって思って、それで、ああ、こうやって自分のことを幸せにできる、だからこれから何かあっても大丈夫だって、そう思う。ここにわたしの大丈夫があるんだなって。こんなにいろいろあったけど、今は大丈夫。ほんとうに幸せ。

私だけの、歪で彩り豊かな世界

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