見出し画像

父が亡くなった今年、何とか仕事納め。本当に感謝です。

今日が今年の最終出勤日、仕事納めでした。
2023年は公私共にいろいろありました。
そんな中で仕事納めができたことは感謝しかありません。
家族、両親の医療・介護でお世話になった方々、同僚、お客さまなどなど、本当にたくさんの人たちのお陰です。
ちょっと振り返ってみることにします。

年明け〜春。嵐の予感?

年明けから春まではコロナ禍が続いていて、まだ自粛が続いていました。
高齢の両親も夏までは、二人で何とか暮らしていたと思うと、今の状況は想像もつかなかったです。

次女が大学寮を出て一度自宅に帰って来ましたが、春には韓国、秋からは中国に大学の交換留学に行ってしまい、自宅にいるときは準備などで慌ただしい日々でした。

コロナが5類になると会社の方の出張や懇親会も徐々に再開されたり、同僚の人事異動があったりと、両親のことが気になりながらも仕事の方が忙しい日々でした。

夏〜急転直下

夏には次女が運転中に軽い事故を起こしてしまい幸い本人に怪我はなかったものの、事故の相手が少し痛みを訴えて通院となったり、私の車が11年超えの古い車だったため、修理費が保険で賄えないこともあって中古車に買い替えることに。

事故対応も落ち着いて、納車の日、実家から通帳や印鑑などが全てなくなったと大騒ぎになり、兄と探しても見つからず、口座をとめることに。幸い預金はおろされておらず一安心でしたが、大変でした。

そして夏の終わり、次女を中国に送り出す直前に、父が帯状疱疹が顔に出て診断が遅れたこともあって酷くなってしまい立てなくなり救急車で搬送されてそのまま入院。

救急病院の雰囲気のためなのか、運ばれた直後からせん妄状態になってしまい、手足を拘束され、一気に体力が落ちてしまいました。

私も心身共に一番辛い時期の始まりとなりました。

秋〜冬、父が亡くなり、四十九日法要

救急病院のソーシャルワーカーに急かされながら紹介されて転院したのが療養病院の認知症病棟。閉鎖病棟です。最初の入院から一カ月で転院した時には父は寝たきりになり、会話もままならない状態で、食事もあまり取れず。床ずれもできていました。
高齢者が救急病院に入ることのリスク、怖さを知っていれば、父を救うことができたのではないかといまだに後悔しています。

転院して1週間で病院から電話があり、父が脳梗塞を起こして意識がないとのことで、病院に駆けつけたのが10月上旬でした。いつまでもつかわからないとのことで、できるだけ面会に行くようにしていました。

脳梗塞から数日後、転院時に意味合いがよくわからないまま同意書にサインしていた中心静脈カテーテルの措置を主治医がしたこともあってか、父は苦しそうな呼吸をしながら、約一ヶ月半生きましたが、11月中旬に亡くなりました。
中心静脈カテーテルももっと私に知識があれば父が苦しまずに済んだのではないかと後悔しています。

その間、何回も休みをもらいながら、兄と手分けして父の面会と母の介護をしていましたが、職場の上司、同僚には本当に迷惑をかけてしまいました。それでも、優しい言葉をかけてくれたのは本当に救いになりました。
また、病院の医療方針や措置には思うところはありますが、看護師さんや介護職員の方々には本当にお世話になり、時には優しい言葉をかけていただけたことには感謝しかありません。

父が亡くなってからは、葬儀場が空いておらず火葬まで1週間かかりましたが、無事に葬儀を終えて、年末には四十九日法要も終えることができ、今はようやく落ち着いた日常が戻りつつあると言う状況にまでなりました。

さいごに

こうして振り返ってみると、私にとっては激動の一年となり、人生観も根底から変わるような大きな一年になったと思います。

まだ、父の死と向き合えていない部分もありますが、それは来年以降に持ち越すことにして、今はゆっくり自分を休ませてあげたいと思います。

とはいえ、留学に行っていた次女も年末には帰国してきて、年明けには二十歳の集いも迎えるので、また慌ただしい日々が始まりそうなのですが。

思ったより長くなりました。最後まで読んでいただいてありがとうございました。

〜仕事納めの帰宅途中、電車にて。
タイトル画像はみんなのフォトギャラリーから拝借しました。いつもありがとうございます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?