『君たちはどう生きるか』のわからなさ(あるがままを受け容れるタイプの冒険譚として見る)

 『君たちはどう生きるか』、「わからん」みたいな感想が多くて、そのわからなさについて考えてた。



ジュブナイルストーリーの類いのはず


 『君たちはどう生きるか』はまあジュブナイルストーリーみたいなもんと言っていいと思う。モノゴコロついてちょっとしたくらいの子が「ほわー」っとみるような感じを想定してるというか。『不思議の国のアリス』に例えてるひとも多くて、確かになるほどと思った。要は「でてくるものをいったんそのまま受け容れる」って感じでみていくのが相応しいタイプの映画なんではないかと。だから最初から細部まで噛み砕くつもりで行くと確かにわかりにくいかもしれない。

 たとえばミステリーみたいな構造のやつは最初からグッと力いっぱい構えてみるのが想定されてたりするとは思うけど、『君たちはどう生きるか』はそういうタイプではないと思う。少なくとも一回めは「ほわー」で出されたものをとりあえず追っていくのがいいと思う。


ストーリーはシンプル


 「ストーリーがわからん」という声も結構あるけど、これも初めから細部を見すぎなのではないかと思う。
 筋書きそのものはかなりシンプルで、大筋だけで言うと「真人がアオサギに導かれたりしつつ夏子と母を追う」って話になってる。ほかにも勿論いろいろあるけど、軸はこれ。異世界のなかみを追いすぎると軸を見失うかもしれんけど、そういうときでも軸を頭のどっかに置いとくのが大事。

 前半が退屈という声もあるけど、こればっかりはどうしようもないというか。真人の「現実と、その受け容れられなさ」が前半やと思う。そこでぐっとくるか退屈に感じるかどうかはあなた次第って感じではあるけど、真人のあのカタい表情をカタくさせてるものを思ってみてみると何か変わるかも。


わからなさ、もうひとこえ(真人はあまり成長しない)


 で、こっからはもうちょっと突っ込んだ話。

 上のとこらへんがわかっててなお『君たちはどう生きるか』がわかりにくいと感じるひとも結構いるっぽくて、それも考えてみるとなんとなくわかるような気がする。たしかになんかわかりづらい。

 真人はあまり成長しない。変化しない。変化するのは環境の方で、真人のほうはあまり変わらない。

 このことじたいが結構なわかりにくさを生んでるような気もする。ふつうは少年が主人公なら話としてはだいたい成長譚になってる。しかし真人はあまり変化しない。変化するのは環境のほうであって、真人の方はそんなにそこまで変わらない。

 一般的には主人公が成長する話が多く、しかも主人公の成長が物語の軸となっていることが多い。シンエヴァなんかがまさしくそうで、あれは言ってしまえば観客がシンジくんの成長を待つ(見守る)話なのである。シンジくんの覚悟がキマっていくことをこそ求めてシンエヴァを見るのであって、シンジくんの覚悟がキマっていくそのさまこそが物語の原動力になる。


『君たちはどう生きるか』と『ぼっち・ざ・ろっく!』


 『君たちはどう生きるか』は、ざっくり言えば冒険譚・ジュブナイルストーリーの類いでありながら、成長譚ではない。どちらかといえば『ぼっち・ざ・ろっく!』のような日常系に近い作りになっている。

 『ぼざろ』において後藤ひとりはあまり成長しない。第8話で「この性格を直してから話したかったんです、少なくとも、虹夏ちゃんには」とみずから語る「その性格」は(少なくとも第12話までの時点では)根本的に直ったりすることはない。それでも、虹夏のぼっちゃんの発見に端を発する環境の変化が物語を動かしている。

 真人もあまり成長はしない。シンジくんと違って、真人は最初からわりと覚悟がキマってる。では成長のかわりに物語を動かすものは何か。


変化と、受け容れること


 『君たちはどう生きるか』において物語を動かすのは、環境の変化と、真人がそれを受け容れることのように思われる。真人が変化と現実を(異世界のほうではなく「真人が思う現実」のほうをこそ)受け容れていくことが、物語を動かしている。

 冒険譚・ジュブナイルストーリーの類いでありながら成長に重きが置かれていないというのは確かにわかりにくく、ある意味では不自然ですらある。でもそこの不自然さが自然であることがこの物語のキモのような気もする。

 この映画は「ほわー」でみたほうがいい、って書いたけど、真人もある意味では「ほわー」で冒険を乗り切ってる(覚悟はキマってるけど)。
 それっていうのはつまり、いったんなんでも受け容れていくこと。自分が思う現実と向き合って、それを受け容れていくこと。

 これはわかりにくい。ふわっとしてる。変化を惹き起こす主体ですらないっていうのがさらにわかりにくい(かもしれない)ポイントで、真人は変化をこうむるほうに近い。
 「受け容れてどうなるか」とか「受け容れることの素晴らしさ」とかを際立たせてるならまだはっきりしててわかりやすいかもしれん。でも『君たちはどう生きるか』はそういうはっきりした教条みたいなのは出さない。ただ示す、ただ投げる。

 答えが大事なんじゃない。大事なのは、問いかけそのもの、問いかけにおいて前提されてる根っこのものなんやろと思う。

 だからこそ大軸が「アオサギに導かれたりしつつ夏子と母を追う」であることが効いてくる。というか、だからこそそこが軸になってる。最終的にその帰結を受け容れることの意味がああやって示されているからこそ、ああいう話になってるんやろと思う。あのお守りのことも含めて。


おわりに


 わたしじしんは最初からすっと身に染みて(わかったように感じて)しまったのでなんとも言えんところはあるけど、わからん派の言うところも少なくとも一部はわかる。それが汲み尽くされたような気はせんけど、『君たちはどう生きるか』じたい、そういうわかりにくさの先にあったもののような気もする。あの絵の迫力、あの終わりかたのあっさりさ、その他もろもろすべてが。宮崎駿じしんが「わからん」みたいなこと言ってたらしいけど、そういうわからなさぜんぶひっくるめて『君たちはどう生きるか』なんじゃないかと思う。


余談


 そもそも細部の理解もどうなんやってのもある。たとえば以下。

 真人が階段を四つん這いでかけあがってるのは獣性がどうこうとかいう話ではおそらくない。昔の家の階段は一段一段が高いとこが多いんで、全力で上がろうとすると勢い四つん這いになる。それを絵にしてるだけやと思う。

 真人がナイフを持ち歩いているのは真人が特別に攻撃的だからではない。アオサギを警戒して持ち歩いているわけですらないのでは、と思う。あの時代の子はわりとみんなああいうナイフ持ってたはず。

 異世界でキリコが乗ってくる帆船のジャイブの話とか、そういう細部がリアリティというかそれっぽさみたいなのに一役かってたりするんで、そういうのをへんなふうに解釈してしまうと変なことになりそうな気はする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?