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『ゴーストワールド』と押見修造と劇場版ウテナ

ゴーストワールド

漫画家の押見修造が好きな映画に『ゴーストワールド』(2001)を挙げていたのを覚えていたこともあって、今回映画館で『ゴーストワールド』を観に行きました。

なぜ今『ゴーストワールド』なのかというと、現在22年ぶり劇場公開されているからです。右の黒縁メガネがイーニドで、左の金髪がレベッカです。

あらすじはこんな感じです。

公式HPより

押見はどこかのインタビューで、イーニドの、卒業式で良い子ちゃんぶってスピーチをする同級生をせせら笑うなど、周囲を小馬鹿にする態度を取る姿に共感し、「女にも自分みたいな奴がいるんやな」と感動したみたいなことを言ってました。

押見の発言の通り、イーニドは陽キャの同級生を小馬鹿にし、陰キャの男子をからかい、美術の授業で意識高めのコンセプトを掲げる奴を皮肉ったり、非モテ中年を電話で喫茶店におびき寄せ放置プレイを楽しむなど、やりたい放題です。

イーニドの悪ノリは、いつもレベッカとつるんでのことです。レベッカはけっこうモテそうな外見をしてるわりにはぶっきらぼうで無表情。クラスの一軍に行けるポテンシャルはあるけどそういうのは求めてなくて、イーニドの悪ノリに付き合ってる方が楽しい、みたいなキャラクターですね。

最初はイーニドとレベッカの2人が主軸となると思いきや、喫茶店でひっかけた冴えない中年シーモアと交流するようになると、話の主軸はイーニドとシーモアの関係性へと移ってきます。

このシーモアについて押見は、「田舎から出られなかった未来の自分」と形容していた気がします。押見の話しぶりからしてチョイ役だと思っていたんですが、バリバリのメインキャストでした。

シーモアはレコードの収集だけが趣味の冴えないオドオドした中年男性で、顔に似合わずキレやすい質も有しています。イーニドはからかい半分でシーモアを尾行しますが、次第に世間に流されない我が道を行くオタク気質なシーモアのことを気に入りるようになります。そしてシーモアと彼をモテさせようするイーニドの、2人の奇妙な交流が始まります。

イーニドと仲村さん

シーモアをモテさせようと訓練するイーニドは、完全に『惡の華』の春日に対する仲村と重なって見えました。そういえばイーニドの気質は仲村にも入ってるって押見も言ってましたしね。仲村が体操着を盗んだ春日の「変態」に可能性を感じたように、レコードを愛する「変態」シーモアとの日々は、イーニドにとっては退屈な町を抜け出せたような気分になる唯一の時間だったのかもしれません。

シーモアにとっても謎の少女イーニドは、春日にとっての仲村のように、バチバチにデカい存在です。斜に構えてるのに異常に積極的、なんかすごくおしゃれ、よく笑う、おっぱいがデカい、かわいい。もう好きになって当然ですが、歳の差のこともあり、シーモアは自分の気持ちに蓋をします。

結局イーニドのおかげでシーモアに彼女ができるわけですが、そのせいで2人の関係はギクシャクしてしまいます。ここは見ていて辛かったですね。シーモアの部屋に寄ったら彼が彼女からもらったジャンク品があったときのイーニドの気持ちですよ。いわゆる「男女の関係」じゃないという「歪な」男女の関係は、破綻するか、ありがちな「男女の関係」に収まるしかないわけですが、それはすごく悲しいことです。

てなわけで、シーモアとの関係もうまくいかず、シーモアのせいでレベッカとも微妙な関係になり、進学の話も就職の話もどっちつかずのまま、イーニドはバスに乗って町を去ります。

そして、どうやら映画通の中ではこの最後の解釈をめぐって色々議論がされてきたみたいです。自殺の暗示説とか。

まあそれはどうでもいいことで、というか自殺とセンセーショナルな言葉を使うだけ使って、イーニドのこれからの人生について思考停止してしまうのは、批評家の怠慢以外何物でもありません。

それに対して、ご存知の通り、押見修造は『惡の華』など、思春期に死に切れなかった人間のその後を描いてきた漫画家です。「向こう側」に行けなくても、ハリボテだったとしても私たちは生きていかなきゃ行けないわけで、バスに乗ってはい終わり!で終われないのが人生というものです。押見もバスに乗ったその後を描きたいとか言っていたような…

押見の漫画はたいてい「抜け出すことはできないけど、抜け出そうという気持ちを持ったまま折り合いをつけよう」みたいなところに収まりがち(『血の轍』は違うかも)です。これは納得感があるものの、なんだか誠実すぎて逆に寂しいアンサーですよね。別の案ってないのでしょうか。

ウテナの劇場版

抜け出せなさの暗示といえば『劇場版 少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』のラストはまさしくそのような話でした。

テレビ版のウテナでは、天井に聳え立っている逆さまのお城は、実際のところ生徒会室のプラネタリウムの投影だったとかで、結局虚像だったことが明らかになります。そういった「理想」を虚像だと気付いて抜け出そうとする力が「少女革命」のひとつの形でした。

一方でウテナの劇場版は、テレビ版本編ではほとんど描かれなかった脱出のプロセスを克明に描いた作品だと個人的には思っています。

その話をする前に伝えたいのが、幾原邦彦作品の鉄則です。それは「助けようと思ってがんばってきた人が、最後には助けられる」というものです。イクニの愛はそのような形をしています。

ウテナもその法則の例に漏れず、特に「手を差し伸べた人が、逆に手を差し伸べられている」というシークエンスが多用されます。「手を差し伸べる」というのは比喩ではなくて、実際に、崖とか高いところから落ちそうになるのを助ける、みたいなシチュエーションです。

劇場版ウテナでは、ウテナが洗車ブラシに取り込まれたときに、アンシーは手を伸ばすも敢えなく失敗し、結果ウテナは自動車(通称ウテナカー)に改造されてしまいます(ボーボボか!?)。これは最終回の崖のシーンのオマージュでしょうね。

けれども、ウテナが自動車に変身してしまったことで、アンシーとウテナはこの世界から脱出する力を手に入れます。ウテナカーに乗り込んだアンシーは、様々な追手を払い除け、王子様のいる世界から出ようとします。

このように、助けようとして失敗することを経験することによって勝手に救われる、というのが一連のプロセスです。救われるのを待つお姫様ではなく、救おうとする気持ちを持ってもがいていたら、それは失敗するけどいつのまにか自分が救われていた、というのがイクニなりの愛なのです。

この「失敗」は言ってしまえば通過儀礼ですが、通過儀礼を経ることで思春期(アドゥレセンス)を抜け出して大人になれるのかというと、そうではありません。

それは王子様のいる世界から抜け出して荒野を走るウテナとアンシーの前に、まあ新たなお城が聳え立っていることが象徴的です。抜け出すのは一回きりじゃない。だから少女革命は一度で終わらず、何度も、繰り返し外に出ようとすることなんですね。これは押見の『おかえりアリス』に近いです。

イーニドは車の免許を取ろう

だからこそイーニドはバスに乗るのではなくて、ウテナのようにバスになってしまえばよかったのです。

それは誰かに導かれるものではなくて、自分の足で誰かを連れて行くもの。けれども運転手は自動車を動かす人間なので、そこには明確な主従関係はなく、ある種の共犯関係を結ぶのです。

ならば運転手はシーモアがいいでしょうか。シーモアと一緒に逃避行でもかましましょうかね。実際に『ゴーストワールド』では運転のシーンはいくらかあります。シーモアの車を追いかけるイーニドたちのシーンや、イーニドがシーモアの車の助手席に乗るシーンもありました。

ここで重要なのはイーニドは車を運転しないことです。高校を卒業したばかりなので致し方ありませんが、やはり車に乗るだけの人間は決まった場所にしか降りることができません。

現実的に人が車になることは相当難しいですが、運転手くらいには誰でもなれます。運転手は車を自分の手足だと思えるようになるらしいので、それで手を打ちましょうか。『ドライブ・マイ・カー』のようにシーモアの車でも運転しましょう。その時にシーモアやレベッカを助手席に乗せてもいいですが、『パリ・テキサス』のように1人で勝手にいなくなるのも悪くないでしょう。

というわけで、イーニドがまずやるべきだったのは車の免許の取得です。車の免許も持たずにここから逃亡を図ろうとしても無謀です。どこかにあてもなく逃げたいときは、車に乗りましょう。あてもなく運転し、どこか遠くまでかっ飛ばす。おいぼれ中年のシーモアにとっては近所に出かける足でしかない車ですが、イーニドならそんな本来の用途で車を運転するでしょう。持ち前の好奇心で、色々なところに寄りながら。

そのとき、イーニドがなんの曲をかけるのか、私はとても気になります。

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