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演劇公演の中止は「国民」にとっての損失なのか? いま? この状況で?(眠りながら考えた(5))

知人の音楽家や演劇人から、公演中止の知らせが相次いで届く。
他人事[ひとごと]ではない。

ただ、損失補填の要望書が政府に提出された、と聞いて、
正直、考えこんでいる。

以下はあくまで私個人の意見で、そして私は演劇人としては末端の末端にいるし、変わり者だ。マイナーもいいところだ。それを踏まえてお読みいただきたいのだけれど、
私は、

演劇の公演の補填にあてるお金があったら、
そのお金は、全額、医療関係に回してほしい。
それも大至急。

演劇ではないのかって? 演劇人なのにって?

どこから話そう。

以前、ある戯曲賞の最終候補に残ったとき、審査員全員にくそみそに罵倒されたことがある。それはもう、なんでここまでという罵り方だった。
その中に一人、こういうコメントをくださった先生がいた(著名な演劇評論家だ)。
「(この応募者=私は)演劇の担う社会的役割を、もう一度、根本から考え直したほうがいい」

その前年に絶賛を浴びて受賞した作品と作者を見るに、この方(たち)にとっての「演劇の担う社会的役割」とは、
「現実世界の真実(とやら)を観客に提示すること」
であるらしかった。

私は、書きはじめた当初から、それはめざしていない。
なぜなら、
そんな役割は、十九世紀で終わっている。と思っているから。

たしかにエミール・ゾラがドレフュス事件の不正を糾弾したときは、人は劇場へ駆けつけた。
書物へのアクセスより劇場の切符へのアクセスがはるかに容易であったから。本のほうが切符より高かったし、当時のフランスの識字率は高くなく、芝居で見聞きしたほうが早かったから。

でもそれ、いつの話?ってことだ。

日清戦争でさえ、人は劇場ではなく、映画館でニュースを知った。
その後はラジオ、テレビ。さらにその後は言うまでもない。

今日び、ただでいくらでも最新の(とはかぎらないが、ましてや正確だったり必要だったりする保証はないが)ニュースが垂れ流し状態で手に入るというのに、
わざわざ狭い所に監禁されて、
現実世界の真実とやらを教えていただく必要はない。
(しかも、だいぶ鮮度の落ちた、よけいな手の加わった真実を。って、それすでに真実じゃないよね。)

そういう、怖い演劇ばっかりだ。
少なくとも私が見まわして目に入るかぎりでは。
普通に生きていくだけでじゅうぶん傷だらけなのに、その傷を、
お金をとってさらに鋭くえぐってくださるのが大好きなお人ばかりだ。

それなら、おまえの考える演劇の役割って何だと訊かれたら、

私はもう十代の頃から、それは|《鎮魂》だと思っているのだけど、

いまはそこに付け加えたい。生きている人たちのことを。
芸術の社会的役割、
それは、魂のチューニングだと思う。

たんなる「癒し」「リラクゼーション」を超えた何かだ。
それは、創り手が、
どこまでも受け手に寄り添うことで、
はじめて実現する。

ピアニストのフジコ・ヘミングさんと、ヴァイオリニストの千住真理子さんのCDを私はずっと聞いている。ほぼエンドレスに聞いている。
自分の正気を保つために。
この不安ばかりあおる情報の氾濫、職場の混乱、やってられない。

お二人とも、超絶技巧を持ちながら、あえて心にしみる優しい曲のCDを出してくださっている。いわゆる「クラシック《通》」がバカにするタイプの曲集だ。何が悪い。現にここに一人、救いをもとめてエンドレスに聴いている人間がいるのだ。

「ゲイジュツの社会的役割」が何なのか、考え直そうよ。それこそ今。
表現の多様性?
そんなもの、マスクと人工呼吸器が足りてからでもまにあう。

「国民の損失」って、なんだそれ。
演劇観ないと「国民」が死ぬとでも?
いつからそんな「国益」のために演劇してたの?

ちなみに、
このアイキャッチ画像、ちょっとボケ気味で申し訳ない。
4月10日に撮影したものだ。
ただし昨日、2020年の4月10日ではない。
2011年だ。
東日本大震災の直後だ。

桜の、幹から直接、咲いている。これが若芽なら「ひこばえ」というらしいけれど、花は何というのか。ご存知の方、教えてください。
9年前の私には、これが、なんというか、
《希望》
の形に、見えたのだ。

9年後の今日も見えている。


(実村文)

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