見出し画像

NHKの《ベートーベン250》プロジェクトがいきなり素敵なことに

二週間前に、NHKの《ベートーベン250》プロジェクトについて、
いてもたってもいられずに怒りの投稿をした。

そして、先週(10/18)のクラシック音楽館「ベートーベン250特集 第2回 革命家・ベートーベン」。
どういうこと?
観終わってしばらく、茫然としていた。

素晴らしかったのだ。息をのむほど。

どうして、どうしてこれを初回にしてくれなかったのだろう?!
前回の第1回は何だったのだ。ただの悪夢としか思えない。あのおぞましい記憶を消しゴムでゴシゴシ消せるなら誰か消してほしい。
何が、どうしたというんだ。

なんとなくわかる。きっと番組制作の方々は、読み違えに気づいてくれたのだ。
そう、そもそも「ベトベンなにそれ美味しいの?」という人は、ベートーヴェンの2時間特番なんて見ない。見るのはきっと、最低レベルでも私のような、クラシックにはたいして詳しくなくても
・生涯の大切な思い出の曲の中にベートーヴェンがある
・ゲイリー・オールドマン主演の『不滅の恋人』(とか)は見た
という人だ。
だから、「あなたベートーベンって誰だか知ってますか?(にやり)」というスタンスで話を進めてくれる必要はなかったのだ。

まして、ベートーヴェンをべつに好きでもなさそうな芥川賞作家さんを呼んで、ベートーヴェンをイメージしたオリジナルカクテルだか何だかを飲ませて、とりとめのない恋愛談義をしゃべらせる必要はなかったのだ。(呼ばれた作家さんも明らかに困っていた。)
そんなことをしてくれるくらいなら、いまのこの駄弁ぜんぶカットしてその分もう1曲多く聴かせてくれベートーヴェンを頼むからベートーヴェンを!と心の中でまたは声に出して絶叫していた視聴者は私以外にもたくさんいたのだと思う。

そして、驚いたことに、私たちのその祈りは、あっさり天に通じた。
じゃなくて、NHKさんに通じた。
祈ったまさにそのとおりに、極上の演奏と解説をたっぷり聴かせてもらって、うそ? ほんと? どうして? と信じられない気持ちでいるうちに2時間が過ぎてしまった。

ということで、訂正記事(ではないが)を書きます。
《ベートーベン250》、待ってました!(涙)
クラシック音楽館ベートーベン特集第2回、いまならまだ見逃し配信がまにあうと思うので、ご覧になっていない方はぜひとおすすめします。
(追記:見逃し配信は1週間で終了しました。オンデマンドも11/1まで!)

もう一度念を押しておくけれど、私はNHKからは神に誓って何ももらっていないし、逆に、脅されてもいない。
ただ、受信料は払っている。
なぜなら、クラシック音楽館の他にも、私の命綱である素敵番組「岩合光昭の世界ネコ歩き」が放映されているのが、NHKのBSプレミアムだからだ。くやしいけど、抵抗できない。

それはおいといて、笑

ちょっと長文になりますが、しばらく私の興奮におつきあいください。

その1:指揮者の高関健氏の解説が素晴らしかった。

マエストロ高関の大ファンになりました。
その音楽性、お人柄。深い造詣。私のような素人にもわかるような、噛んで含めるような解説。そして何より、ベートーヴェンへの並々ならぬ敬愛。
もう、嬉しすぎて拝んでました。

どうして初回からこの方にお願いしてくれなかったのだろう。

ベートーヴェンの起こした「3つの革命」の、ていねいで、かつ、わかりやすい解説。

前回だって同じような説明はあったのに、どうしてこんなに説得力が違うのだろう。
やっぱり、ほんの少しの緻密さ、細心さで、筋が通るのだと痛感。

◆革命1:「ジャジャジャジャーン」だけで作曲

有名な第五交響曲『運命』。極小のモチーフ(音4つ)のみで壮大なシンフォニーを構築する。その話だけでも面白いけれども、それだけだと聞かされるほうとしては「へえー」としか言いようがない。

マエストロ高関のお話は、もう一歩踏み込むものだった。
最初の1拍が、休符。
「ジャジャジャジャーン」ではないのだ。
「(ン)ジャジャジャジャーン」、なのだ。

「じつは、運命の冒頭は、指揮者もひるむほど難しい」

無音を音として数える。それも、全員の呼吸を合わせて。
もう、指揮棒を構えるマエストロを見るだけで、ドキドキする。こう言ってもらうと、『運命』の何が凄いのか、テレビの前の私たちも体感できる。

たしかに、これを全曲中、二百何回やらされたら、オケは死ぬね! 死なないけど!

ナビゲーターをつとめる稲垣吾郎さんの語りもいい。
その上、稲垣さんみずから体当たりで指揮に挑戦し、その難しさに冷や汗。マエストロ高関の達人の技を真剣に見つめるまなざしが、澄んでいる。

マエストロ高関、ベートーヴェンの自筆譜(コピー)を広げて、推敲の跡から作曲家の苦心を読み取っていく。これがまたスリリング。メイキング・オブ・運命だ。
ほんの2小節が画竜点睛となって、完成する『運命』。
ベートーヴェン、妥協しない人なのだ。自分に。

◆革命2:感情を音楽で表現

なんと、壮絶な『運命』と同時並行で書かれていた、光あふれる第六交響曲『田園』。
番組の前回では「各楽章に表題を付けました、かっこいいね」程度の雑な説明だったのが、マエストロ高関みずから指揮棒を振りながら、各楽器のどのモチーフが何をあらわしているかをていねいに説明してくれる。
とくに、超絶スピードを要求されるコントラバスやヴァイオリンの方々の真剣なアップが、説得力絶大。

そう、ヴィヴァルディの『四季』だって、「真夏のけだるさ」や「真冬のきびしさ」や「春の楽しさ」をはつらつと表現しているのだけど、
ベートーヴェンの『田園』は、スケールが違う!
この話が聞きたかったのです!(喜)

私などにはうまく言えないけど、ヴィヴァルディの『四季』だと、春や夏や冬を感じて楽しんだり走ったり眠ったりするのは、私自身の感じがする。ところが、ベートーヴェンの『田園』だと、ベートーヴェンさん本人が、本気で嵐の中を駆け抜け、雷におびえ、泣きながら祈り、ついに雨がやんで虹が出ると空に向かって大喜びで帽子を振っている姿が見えるのだ。
この差は何だろう? 構成の複雑さ、規模の大きさ。
そして、たぶん、リズムと和声。
(できればこのあたりの話、次回以降もっと聞きたい!)

ベルリオーズの『幻想交響曲』とのつながりも、簡潔かつていねいな説明で納得。
ようするに、オーケストラだけで《ドラマ》を表現できるようにしてしまったのだ、ベートーヴェン。
こう説明されるならベルリオーズさんも喜んでいると思う。きっと。

◆革命3:楽章をつなげる

楽章と楽章の切れ目をなくして、先へ先へとつなげるようにしたのも、ベートーヴェンの発明だそうだ。
この説明は前回もあったのだけど、説得力がまるで違う。わかりやすい。
つまり、途中で拍手をしないということは、

演奏者と聴衆が一体となって、最後まで一気に駆け抜けるのだ。

これ、ほとんどもう、演劇に近くない? それも理想の演劇に。

ピアノ協奏曲第5番『皇帝』を例に、じっさいに聴かせて実感させてくれる。
これもベートーヴェンをこよなく愛するピアニスト、ルドルフ・ブフビンダー氏の大胆かつ繊細な演奏もみごと。(指揮はブロムシュテット師)
もう、感謝しかない。

(それにしても、くどいようだけど、
前回とはなんという差だろう。
前回の広上淳一氏の解説。彼はベートーヴェン(のような躍動感あふれる音楽)を聴きながらワインを飲むと悪酔いするそうです。ワインを飲むなら(優雅に)バッハやモーツァルトがお勧めだそうです。
へえー。そうなんだ。あの凄絶な『マタイ受難曲』や『レクイエム』をお酒のおつまみにね。
だって「ベートーヴェン以前は宗教曲しかなかった」って言ってるんだから、そういうことですよね。
――まあ、そう言わせたのは番組の台本でしょうけれどね。マエストロ広上も気の毒です。

その2:実演が素晴らしかった。パーヴォ・ヤルヴィ指揮『運命』と、ヘルベルト・ブロムシュテット指揮『田園』『皇帝』。

お二方とも、私の大好きな指揮者だ。
私は本当に半可通だから、世のクラシックファンの方々のように、マエストロたちの品定めなんてとてもできない。ただ、演劇人なものだから、指揮台の上の姿にくぎづけになるかそうでないかの差が、動物的な直感で、すごくはっきり分かれてしまう。

パーヴォ様とブロムシュテット師は、個性としてはずいぶん違うかもしれないけれど、じつは共通点がある。
彼らが振るとき、オーケストラの人々が、よく動くのだ。

前のめりで弾く。吹く。叩く。

皆さん、椅子の上で弾んでいる。ヴァイオリンもクラリネットも、ほとんど椅子から立ちあがりそうになっている。

『運命』の一楽章はもちろん好きだけれど、
泣いたのは、生涯初めてだ。
いま、録画を聴き直しながらこの記事を書いていて、また泣いてしまった。
ありがとう、パーヴォ様。
愛してます!!(すみません口がすべりました)

そしてまったく個人的なことなのだけど、『田園』は、
この夏亡くなった父がこよなく愛した曲だった。
現役最高齢といわれるブロムシュテット師、御年93歳。なんという品格、なんという優しさ。彼を見て、聞いていると、《エレガンス》というのは心のこまやかさのことじゃないかな、という友人の言葉を鮮烈に思い出す。
もう神としか思えない。
これも最終楽章で大泣きしました。
お父さんに聴かせたかった。ううん、きっと聴いてる、天国で。

そしてピアノコンチェルト『皇帝』。
インタビューで「ベートーヴェンを弾いていると泣きそうになることがよくあります」と熱く語るブフビンダー氏。画面に向かって、思わずうんうんとうなずく私。(見えてないって(笑))

『皇帝』、めちゃくちゃ「上がる」。
このコロナ禍で、半分以上引きこもりの鬱になっている私でも、
こんな幸福な音楽が聴けるなら、生きているのも悪くない、という気にさせてくれた。

泣いちゃうよ、ベートーヴェン。

番組1時間半のところで、稲垣さんのナレーション。
背景の映像は、いまの東京の交差点だ。
マスクをした人々が無言で歩いていく。
粛々と。

そこへ、第九交響曲の第三楽章が流れる。
癒し、などと言ったらはずかしくて申し訳ないくらい、
温かくて神々しい、メロディーとハーモニーだ。

「(ベートーベンにとって)創作のエネルギーの源は、何だったのだろう?
《音楽で、世界を少しでも良くしたい》
人々を幸せにするために、ベートーベンは曲を作った」

だめだ。泣く。

本当にそう。ベートーヴェン。
三十歳を前にして、聴こえなくなっていく耳に絶望して、
それでも
「僕の中にいまある音楽を書いてしまうまでは死ねない」
そう書いて、自殺を思いとどまったベートーヴェン。

ありがとう、ベートーヴェン。死なないでくれて。
こんな音楽を残してくれて。

笑っちゃうよ、ベートーヴェン。

そんな感動的な、あまりにも感動的なベートーヴェンなのだけれど、
しかも、それだけではないのだ。泣かせるだけでは。

じつは、暗ーく始まる『運命』の最終楽章は、明るい。
あぜんとするほど明るい。
ちょっと品のない言いかたを許していただけるなら、
ほとんど「ドヤ顔」だ。

やっぱり、ただものではない。ベートーヴェン。
というか、じつはすごく、愉快な人だ。

疾走につぐ疾走。ものすごいドライブ感。

そして(これは番組の解説じゃなくて私の感想、)

オーラス、416小節目から最後の446小節目まで、
なんと、「ドミソ」の和音しかない。
終わるの? もう終わるの? と何度も思わせて、
残念でしたまだ終わりませーん、まだまだ! まだ! という音楽。

「ドーーーーーーー、ソミド、
ド、ドドドドドド、ミミミミミミ、
ドドド、ミミミ、ソソソ、ドドドー、
ミー、
ミ、
ド、
ド、
ド、ド、ド、
ド、
ドーーーーーーーーーーー」

これ、冗談だよね。
ここ笑うとこだよね?! ねえ? ベートーヴェン!!

最初の「ドーーー、ソミド」のところでもう、私たち聴衆は「ああ、終わるね」と思って、拍手をしようと思って両手を出しているのに、
ぜんぜん終わってくれない。
出した手を叩かせてくれない。
叩こうとして、何度も何度もつんのめさせられる。
「まだ?」「まだ。まだ終わってあげない」「えーもういいでしょ?」「だめー!」みたいな。
だるまさんがころんだ、ですか? ベートーヴェン! おちゃめさん!

よく「元気をもらう」と言うけど、それどころじゃない。
これ、飛ぶ。
うつうつとしたものがこなごなに砕け散る。
肖像画や彫像のベートーヴェンはたいてい気難しい顔をしているけど、
ここを聴くたびに、私には、彼の笑顔が見える。大笑いの。

ベートーヴェン250、これからが楽しみです。
今回の放送には本当に感謝しています。
どうかどうか、どうか、この路線のまま行ってくれますように。

(ここから小声)
そして、できれば、

ベートーヴェンの音楽が「人間的だ」ということは、よくわかったから、
どうして私たちの耳にこんなにも「人間的」に聞こえるのか、
あと一歩、せめて半歩、踏みこんで教えてもらえたら、と願う。

ただし、バッハを引き合いに出しておとしめることなしに!
それバッハさんと、バッハさんのファン(私も)にものすごく失礼だし、
だいいち、いいかげん聞き飽きたから。

それと、

「当時の音楽家たちは貴族のお抱えでした」という説明が、前回よりはずっとましになっていたけれど、やっぱりまだ雑すぎる気がする。番組制作班の方々に訴えたい。視聴者はあなたがたが思っているほどバカじゃない。少なくとも、小学校は出ている。手抜きしないでちゃんと説明してください。王侯貴族の娯楽だけじゃなく、教会から礼拝用の作曲を頼まれるのが、音楽家たちの大きな仕事だったはず。それに、王侯貴族との関係にしたって、雇われることと注文を受けて作曲することと、作った曲を献呈することは、それぞれ違うはずですよね。


クラシック音楽館のページはこちら

https://www.nhk.jp/p/ongakukan/ts/69WR9WJKM4/episode/te/K26NZ7K11N/

オンデマンドのページはこちら

https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2020110052SA000/?spg=P201300108400000





私の記事はすべて無料です。サポートも嬉しいですが、励ましのコメントはもっと嬉しいです。他の方にオススメしてくださるともっともっと嬉しいです。また読みにいらしてください。