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短編小説: 間違えた恋人

 寒い朝に、食パンを一切れ取り出す。八枚切りのそれは薄っぺらくて、この後の仕事の量を考えてから三枚をトースターの網に載せる。焼き上がると、紫帆ははじめにピーナッツバターを厚めに塗り、それからバターナイフを替え、薄く苺ジャムを塗った。母はいつも一つのスプーンを使っていたから、ジャムの瓶にはいつもピーナッツバターが当然のように混じっていた。
 「またそれ」
 キッチンに顔を出した雪彦が、背後でスーツのジャケットに袖を通しながら覗き込む。
「よくそんな甘ったるいもの朝から食べるな」
「トースト、焼く?」
 訊くと、いや、コンビニにするわ、と背を向けた。
 本当は紫帆は四枚切りの厚い食パンが好みなのだけれど、雪彦は食べづらいと言って、毎度当然のようにスーパーで薄い方を籠に入れる。たまにしか家で朝食を食べないのに、そうしないと気が済まないのだ。けれど、紫帆は思う。そんなことはどうでもいいのだと。そうすることで男の機嫌が保たれているなら、なんだっていい、と。

 家事が苦手で、主に夜に働いていた母にできた料理はインスタント食品をあっためるか、湯を注ぐかぐらいで、けれどそのトーストだけは自慢げに皿に載っけて寄越してきた。
「いいでしょ。紫帆ちゃんの好きな苺ジャム、いっぱい載せてあげたからね」
 紫帆はどちらかというとピーナッツバターの方が好きであったけれど、そのときばかりは本当にうれしくて大袈裟に喜んで見せた。それだけ、母親が自分に向ける愛情を、得る機会は少なかったのだろう。

 待ち合わせは七時だったのに、原稿がなかなか上がらなくて、ぎりぎり間に合うタイミングで家を出た。十二月ももう終わりに差し掛かっていて、タクシーの空車が見つからず、結局三十分も遅刻してしまった。到着すると、担当編集者である坂木がちょうど入り口付近にいた。
「遅いですよ〜」
「ごめん!タクシーがつかまんなくて」
「水沢先生ももう到着されてますよ」
 その夜は、普段から仲の良い編集者や作家、ライターやデザイナーとの忘年会で、編集者たちがよく利用しているという小さなフレンチレストランの一画を予約していた。すでにワインのボトルがいくつか空いていて、訊くと何人かは六時の開店と同時にやってきて飲みはじめていたのだという。
 「この間のエッセイ、面白かったよ。紫帆ちゃんにしては新境地って感じじゃない?」
 飲みはじめてすぐに、作家の水沢晶子に話しかけられた。
「恐縮です。私も先生の連載、毎号楽しみに読んでます」
「もう毎月毎月筆が進まなくて、しんどいわよ。なんだって、こんな自分を苦しめる職業に就いたのかしらね」

 やがて何本ものボトルが空き、それぞれの顔が薄く赤く染まりはじめたころ、思いがけない参加者が現れた。
 その二人を発見して、周囲がざわつく。紫帆もまた、みんなの視線の先に注意を向ける。けれど目の前の男たちが立ち上がったせいでよく見えない。
 隣で背伸びをした水沢が、歓喜の声をあげる。
「あら、羽村先生と八幡さんじゃない!」
 そろそろ別の店に移動しようかというタイミングの登場で、場は再びの盛り上がりを見せた。
「まさか皆さんいらっしゃるなんて」
 壮年の編集者である八幡は、かつてよりいくつか増えた目尻の皺を眼鏡の奥で寄せながら、笑顔でこちらにやって来た。しかし紫帆を見つけると、少しだけ動揺したように瞳が揺れた。誰にも気づかれないぐらいの、ささやかさで。

 その後も人が人を呼び、店内はほとんど知り合いだらけで貸切状態のようになってしまった。シェフでもある店主も、とうとう自ら皆とグラスを合わせはじめ、いよいよ年の瀬を感じさせる。あちこちで歓声が上がる。
 酒が進み、少しだけぼうっとする頭を冷やすためにカウンターにあった水差しに手を伸ばすと、大丈夫ですか、と声を掛けられた。
 見上げると、ほとんど素面である八幡と目が合った。
「ええ。少し飲みすぎたみたいです」
「そうですか。お酒は強い印象でしたが」
「この頃、ワインを飲むと二日酔いになるんですよ」
「僕も日本酒を飲むとだめです。・・・あのころ、あなたは何でもよく飲んでいましたね」
 紫帆は当時二十五歳で、確か八幡は四十二歳であったはずだ。だとしたらもうすぐ十年になるのか。
「あなたも相当飲んでましたよ」
 言うと、確かに、と呟いて俯く。唇を真横に引いて、少しだけ笑顔を見せる。そういえば、あまり笑わない男だったな、と思い出す。
「ご活躍のようで。読んでますよ、時々」
「結局、小説は向いていなかったみたいですけど、エッセイやコラムでなんとか食べてます」
「いや、あなたの書くものはちゃんとおもしろいですよ」
 褒められているのに、なぜだか紫帆は微塵もうれしくなかった。無意識に身体が強張る。
 あのころ、駆け出しだったころ、八幡は決して紫帆の書いたものを褒めることはなかった。互いに愛情があると確信しているからこそ、師弟関係にも似たその関係性に、紫帆はしばしば困惑した。ただ、何のしがらみもなく女として愛されたいと、そう呟きそうになるたびに、八幡を失うリスクを考え、思いとどまった。八幡は何事にも純粋で真っ直ぐで、そんなところに惹かれ、そのことに疲弊した。けれど結局のところ、半年ほどで二人の関係は終わった。
「あなたは?元気でした?」
 八幡は一瞬だけ紫帆を見て、結婚しました、と口元だけで笑った。

 全てが徐々に冷えていくのを感じていた。空気も、声も、言葉も、目も。愛しあっていた時間が白昼夢だったのかと思われるほど、別れの気配が日々、濃くなっていく。だから必死に、愛されているという実感を得るために、男の表情や仕草をカウントした。一つ一つを注意深く。まだ大丈夫だと、自分を納得させるために。けれどそこには、もちろん何の根拠もなかった。
 その日、紫帆はバイトの後で八幡とレストランで待ち合わせしていた。しばらく八幡の仕事が忙しく、会うのは一月ぶりだった。天気予報は晴れだったのに、外に出ると秋雨がしとしとと降っていた。この日のためにおろした新しい白いスウェードのパンプスが濡れる。湿気を吸った髪が頬に張りつく。待ち合わせ時間までに化粧直しもできずに、遅刻しないようにと走っても信号に止められる。パンプスの色が濃くなる。何をどう努力してもだめだ。終わりの気配をかき消すように、精一杯気持ちを切り替えようとして、けれど頭がそれに追いつかない。悲しい予感だけがまとわりつく。
 横断歩道の向こう側、店の前で八幡が携帯電話を見ながら待っているのが見えた。いつものように難しい顔をして、眼鏡の奥の瞳が冷たい。あの二つの光が熱く燃えるのを、確かに見たという記憶が、いまとなっては紫帆を苦しめる。彼という人間がすっかり変わってしまったように見えるのは、なぜなのだろう。何を間違えたのだろう。あの人に間違えたくないとばかり努力をしつづけてきたのに。でも、そもそも最初から、全部を間違えていた気もした。
 八幡がこちらに気づき、右手をあげる。彼もまた、自分と同じように、何かに疲れた表情をしている。
 不意に目頭が熱くなった。予測できないスピードで、悲しみが身体を襲う。予感は、いつも感情より先に来る。一月ぶりにようやく会えたのに、もう一人の部屋に帰りたくなっている。このまま会わなければ、次までにはどうにかなっているとでもいうのか。でもこれが、これまでの自分たちのつくりあげた結果なのだ。
 息を一つついて、紫帆は笑みをつくり、走り出した。
「雨だね」
 できるだけ楽しそうに聞こえるように言うと、秋の雨はなかなかしぶといからね、と八幡が言う。こんなに永く降られては、困ってしまうね、と。

 取り返しがつかないくらい、傷つかなければならないと思っていた。そうしなければ前に進めないと。他の男の存在を知って、ようやく八幡は連絡を寄越さなくなった。たった二度会っただけの、苗字も知らないような男だった。より深く傷ついたのは、どちらだろう。泣けるだけ泣いても、なんにも変わらなかった。どうやったって心から消えない存在があるとしたら、別れることなんて永遠に無理なのだろう。肉体が離れても、胸の中に居座られては、意味がない。

 「あなたには苦しめられましたよ。いつの間にか、何も言わずに僕に心を閉ざしてしまったから」
 ようやく酔いはじめた八幡が、少しだけ潤んだ瞳を揺らす。会わない時間の中で増えた白い髪が、紫帆の胸をざわつかせる。
「甘えていたんですよ。子供だったんです」
 いつだって正しい彼の前で、当時紫帆にできることはただ無言で抵抗することだけだった。自分の心を守りながら、男を愛することに必死だった。
 八幡は少しだけ目を伏せて、首を傾げ微笑んだ。
 でも、甘え合わずに、いったいどうやってあの時わたしたちは愛しあえたのだろうと、紫帆は思う。互いの欠点を許し合わなければ人は互いを愛しつづけられないことを、いまではもう知っているから。
「あなたがちゃんと成功して良かった。僕は本当にうれしいんです」
 八幡がグラスを差し出し、二人はそれを合わせた。
 心の中を、寂しい風が通りすぎた。本当に冷たい風だった。
 遠くで再び歓声が上がる。水沢が高価なシャンパンボトルをあけたのだ。彼女の横ではしゃいでいた若手の編集者である女性が、八幡に向かって笑顔を見せる。
「彼女、評判いいですね」
 紫帆の周囲の作家やライターが彼女と関わりがあり、口々に褒めるのを耳にする。
「ええ。きっと、育ちが良いんですよ。屈託がないから、愛される。良い部下です」
 朝に食べたトーストが紫帆の頭をよぎったけれど、紫帆は笑みをつくってうなずいた。グラスの残りのワインをあおる。

 やがてそれぞれがコートや持ち物を手にしはじめた。紫帆もまたグラスを置いて背筋を伸ばす。そろそろ現実に帰る時間だ。その時、かすかな音に気がついて壁際に目を向けると、窓の外を雨が打つのが見えた。
 八幡もまた、それに気づく。
「雨ですね」
 みたいですね、と紫帆もつぶやく。どうしよう、傘がないわ。
「・・・憶えていますか?あの雨の日に、ここで待ち合わせしましたよね」
 懐かしそうに八幡がつぶやく。
「あれ、ここでしたっけ」
「えー、憶えてないんですか。ショックだなぁ」
 この夜はじめて、八幡が少し砕けた口調になった。
「いえ、待ち合わせてご飯を食べたのは憶えてるんですけど、この店でしたか」
 八幡もまたグラスを置いて、部下に渡されたコートに袖を通した。
「あの日、店の前で崩れた髪型を直しながら走ってくるあなたを見て、僕はあなたを本当に好きだと思ったんですよ」





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