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フジファブリックの志村さんと浜ちゃんの共通点

 ツイッターでほいほいつぶやこうと思ったのだが、あの小さな枠内に収めるには必要最低限まで文字を減らすのに頭を使う。
 となると、ツイッターとはもしかして思ったことをそのままつらつらとつぶやくということに向いていないのではないか?と、いまさら気づく。
 私はわりとツイッター上でも過去に運営していたブログなど(消去済)でも、とりとめもないことをそのまま垂れ流しがちで、しかも長い。頭の中に浮かんだ言葉をなんの飾りもなくそのまま言葉として放出してしまうということが、一種の快感になっているのかもしれない。
 排出に伴う快感は生物の基本的な欲求であるからあながち間違ってもいない気がする。ちなみに排出時に快感があるのは、そのまま体内に留めておくと生命をおびやかすので、適切な排出を促すための機能なのだとGoogle先生に教わった。

 人様に読んで頂くことを考えると、一人称や文体は統一した方がよいであるとか、適度な文節で一度文章を区切った方が読みやすいであるとか、いわゆる作文としての技術をきちんと丁寧に押さえて記述した方が、圧倒的に読みやすいし、伝わりやすいし、読み手に「あ、これ読もう」という気にさせるであろうことは自分でもなんとなくわかっている。推敲とかもできればちゃんとした方がいいんだろう。知ってる。誤字脱字があったら読みにくいし正しい言葉に脳内変換する手間がかかる。一応投稿してから一度目を通して、ここもあそこもやっぱり直そうという二度手間というか無駄な労力というものは飽きるほど使ってきている。学習しない。
(そして現在も投稿後に念のため確認したところ、修正を加えているのだ)

 でも私は推敲がいっとう苦手なのだ。
 一度終わったものをそっくり振り返るという行為が、どうにもこうにも苦手なのだ。

 仕事ならさすがに苦手どうこういってられる場合ではないので一通り蛍光マーカーでチェックしながら目を通す。しかしこの記事はただの脳内垂れ流し用のnoteだ。人間の脳内なんて綺麗に片付いているはずがない。
 言葉も姿も、表に出すとき、人前にさらすときになってようやく見栄えを整えるものなのだ。自分のために身綺麗にするだけだという人もいるが、それはそういう趣味であると思う。

 で、これはただの脳内垂れ流しだし、別にたくさんの人に読んで貰わなくても、なんか気になるなあとか、ちょっと私もそう思ってたんだよなとか、どこかにいる誰か一人でも引っかかってくれる人がいたらもうけもんだなという気持ちで(というこれすらも後付けの理由かもしれない)この文章を書いておきたいなと思った。
 誰も読まないかもしれないけれど、いつか時間が経って振り返ったときに、過去の私はこういうことを考えていたんだけど、未来の私から見てどう思う?と問いかけられたかけらを、このことについては残しておいても面白いかなと思ったから残してみる。必要ないと思ったらそのうち消すだろうし。



 長い前置きを終えて、タイトルの本題に入る。
 その前に1つ。私は音楽を聴くのも好きだしカラオケなどで歌うのも好きな人間であるが、例えばコード進行とかなんかそういう音楽の技術的なことはほぼわからない人間であるということを申し添えておく。趣味として、楽しければいいというだけで音楽が好きなだけの人間の一意見である。

 表題にあるとおり、フジファブリックの最初のボーカル・志村正彦と、歌手としての浜田雅功(ダウンタウン)には、個人的にわかりやすい共通点があると思っている。それは


歌が下手


 ということだ。
 全くもって個人的な所感であるので、音楽に精通している方やファンの方からみると見当外れかもしれない。
 しかし一般人である私個人は実際にそう感じてしまったのは事実である。(ここで「ファンの方には申し訳ないのだが」と一言添えようとしたのだが、マイノリティの個人的な意見を大多数と違うからということだけで謝罪する風潮がどうにも嫌いなので、ここは私個人の勝手な意見ということで押し通させて頂く)
 素人から見ても、というか聴いても、いわゆる「プロの歌手」として考えると、例えば高音が詰まって聞こえる気がするだとか、声が揺れているだとか、なんとなく感覚的に、技術が不十分なのではないか?と思う部分がある。
 しかしこの二人が歌う曲は、圧倒的に心に響くのだ。


 わかりやすいところでいうと、フジファは「若者のすべて」という曲、浜ちゃんは「チキンライス」を、それぞれ聴いてほしい。
 ファンだと言えるほど聴き込んでいるわけでもない私は、何気なく耳にしたこの2曲は、初見で泣いた。
(つけくわえておくと、野球好きな私は電光石火もめっちゃ好きだし、H Jungle with tの曲は全部神曲だと思っている)

 この歌詞は、このメロディは、この人が歌うからこそ、こんなにも実感があって、存在感があるのだ。
 何気ない喜びと哀愁が、こんなにも日常を彩っていたのかと気づかされるのだ。
 全く同じ状況とはいわないが、大多数の誰もが、この曲を聴いたときに似たような状況を容易に想起するであろうと思う。


 それは、歌が下手だからこその説得力なのではないだろうか。


 一般人である私には、プロの歌手のような上手に歌を歌える才能はないし、上手な詩をかける文才もないし、音が0から生まれてこない人間からしたら曲を生み出すなんて芸当は魔法でも使ってんのかと思う。
 そして、上手に歌える技術があり、豪華にセッティングされた舞台で、きらびやかな衣装を着てまばゆく照らされるプロのアーティストたちは、別世界の特別な生き物として、自分とは全く異なる生き物として、ある種割り切って鑑賞する。

 しかし、歌が下手だとどうだろうか。
 Tシャツにジーンズというその辺に普通にいそうな兄ちゃんの服装で歌われるとどうだろうか。

 街行く人並みのどこにいても気づかれなさそうな、職場のどこにでもいそうな、身近にいる一般人のように、ごく普通の一人の人間のように、無意識に錯覚しているのではないか。自分と同じ世界の生き物なのだと、感じるのではないか。
 だからこそ、実感として心に響くのではないか。

 技術的には文句なしのいわゆる「歌が上手い歌手」でも、心に響いてこない歌はある。
 技術不足に感じる「歌が下手な歌手」なのに、とても感動する。
 なぜだろうと考えたときに、2人も同じようなタイプの歌手がいると気づいたときに、思った。


 下手だからこそ、リアルなのだと。


 もちろん上手い歌手だって、心の支えになり得る。でもそれは、一服の清涼剤のような、一時的に瞬間的に浮上するような、うまく表現できないが「そういう何か特別で素晴らしいもの」としての有り難さだと思う。
 対して彼らの歌は、身近に感じられるからこそ、寄り添って支えて貰えるような気持ちになる日常的な有り難さなのだと思う。
 どちらも尊いものだ。
 「特別なもの」は特別であるがゆえに有り難さを知覚しやすい。
 日常的で普遍的で、「どこにでもありそうなもの」は、当たり前であるがゆえに有り難さに気づかない。いわゆる失って初めて気づくものというやつである。




 人生を上手く生きている人はどれぐらいいるのだろう。
 人生をしんどいなあと思って生きている人はどれぐらいいるのだろう。
 全てが上手くいくと思って生きている人はどれぐらいいるのだろう。
 上手くいかないこともあるけど、なんとか生きていこうと思って生きている人はどれぐらいいるのだろう。


 下手であることが良いと思えることも、ある。
 駄目だなあと思うことが人を支えることも、ある。
 サビで音をはずしながら笑顔で歌う映像を見て、ぼんやりとそんなことを思った。

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