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クイズとマンガと二次創作

 ツイッターに上げようと思ったものの、まーたこりゃ長くなっちまうなと思ったのでこちらに投げさせていただく。
 クイズとマンガととある二次創作から、ほぼ同じような気づきを最近得た。そんなとりとめもない知見の話。
(動画の埋め込みが可能なのか不明なため、すべてリンクで失礼)



 まずクイズ。
 というよりも、正確には、大好きなクイズ系YouTuberであるQuizKnockの動画「東大生ならどっちを取る?究極の2択大激論!」内での発言による気づき。

https://www.youtube.com/watch?v=teSrQJxbNH4

 こちらの動画内で、ナイスガイの須貝氏(右端の人)が、とある究極の二択においてとある選択をした際の発言をざっくりとまとめる。

「科学は人に伝えることが目的」
「自分が真理をわからなくていい、最終的に何かがわかればいい」
「俺はどこでもドアを作れなくていい、自分が伝えた次の人がむっちゃ理解って、それでどこでもドアができたらそれで嬉しい」
「人の営みこそが科学」

 なんというナイスガイな考え方なんだろう。
「自分が全てを理解しなくても、他の人に繋いでいけばいい。そうして科学は発展してきた。」
 これは人類の進化そのものであり、人が生きるということそのものでもあるのではないかと感じた。
 これまで私は、できるだけ自分ができることは自分でやりたいし、できれば自分で全て知りたいという、どちらかというとこの動画内でいう伊沢氏(白シャツのCEO)の思想に近いものを持っていた。けれども、「人の営みこそが科学」という言葉は、2020年の自分の中での流行語大賞になるぐらい心に残ったのだった。



 次にマンガ。
 こちらも、正確には、ネームの作り方でお世話になった『東京ネームタンク』の代表であるマンガスクリプトDr.ごとう氏が、YouTuberにて上げているラジオ動画「漫画家タメニナルラジオ」や、それ以前のさまざまな漫画の描き手支援動画にて話していた内容による気づき。

https://www.youtube.com/watch?v=UXFZ_dX4AfY

 ごとう先生は折に触れて、なぜネームタンクという組織をわざわざ立ち上げたのかということについて語られている。元々漫画連載をしていた経験から、いかに漫画を楽しく描くかということを、技術面やメンタル面双方から優しく解説し導こうとしている。
 しかし、そもそも、なぜ、自分で漫画を描かずに他の漫画描きに向けて発信するのか。こちらも以下にざっくりとまとめる。

「自分で漫画を描くことで得られた一定の成果(商業連載等)には満足した」
「漫画を描きたいけど描けない人に、描く楽しさと作品を完成させる達成感を伝えたい」
「自分が漫画によって達成できなかったことを、技術を継承した誰かが達成してくれたらそれが嬉しい」

 漫画を描けるメソッドがあるなら、自分で描けばいいという批判を受けたこともあると言っていた。確かに一理ある。
 けれども、ごとう先生はおそらく自分で描いて自分一人が喜びを得るよりも、たくさんの種を芽吹かせることにより楽しみを見出したのだと思う。
 それは、前述の須貝氏が言っていた「科学は人に伝えることが目的」と全く同じ考え方を根底に持っているように感じた。自分一人で全てを完結するのではなく、自分が知り得た学びを誰かに伝え、その誰かが自分を超えていくところに価値を見出している。
 そしてマンガそのものもまた、「作者が読者に何かを伝えることが目的」の娯楽媒体の一つであるというのも面白い。


 言葉でも、絵でも、触れ合いでも、伝えたい思いの内容とともに、人は何かを人に伝えるという行為そのものを、大切にしているように感じる。
 自己完結で高みに到達できる、職人のような探求者のような、そういうものがかっこよくて尊くて目指すべきものであるものだと思ってきた。
 しかし、このジャンルの異なる二者の、全く同じとも言える思考に触れ、自分の中に新しい価値観が流入してきたのを感じた。
 これまでの私であれば、ああそういう考えの人なのだなと、そこで感想が終わっていただろう。けれども、今の自分は彼らの言葉に引っかかってしまった。普段は自分の意見を曲げようとは思わないし、ましてや真逆の意見なんてまっぴらだと思う節がある。
 それが尊敬の対象の発言であれば、自分と異なる意見でも聞く耳を持とうという気になるのだからお手軽なものである。



 そして最後に二次創作。
 これはとある同人作品から感銘を受けたことであるので、詳細は伏せておく。こちらの作品も、この作者の作られる物語がどれもとてもツボであるので、より受け入れやすかったのだろうと思う。

 そもそも二次創作の楽しみ方や入り口は様々あると思うが、私の場合は、三次元で疲れてすさんだ心を軽やかにしたかったり、二次創作元の原作内で辛い目にあってきた推しキャラを二次創作で幸せにしたい、そうなっているところが見たいという気持ちで描いたり読んだりして楽しんでいる。
 ちなみに前述のネームタンクで受けることができる『パーソナル萌え診断』によると、わたしは「ガマン萌え」らしい。わかりみが深い。推しは大体苦労人であり、自分の感情をどこか押し殺している。かわいい。自分の萌えが明確になって面白いから、興味がある人は受けたらいい。
 それにしても二次創作の世界に入り込んでもう随分と随分と経つが、それだけ人生の楽しみとしてなくてはならないものになっている。
 そしてつい先ほど、ひとつの作品を読み終え、推しキャラが理想の形で表現、救済されたことに満足したところでふと気づいたのだ。私個人としての二次創作の楽しみ方そのものが、まさに前述の2名の言っていたような思想に基づいていたのではないのかと。


 1度や2度ならまだ偶然の域を出ないが、3度目の気づきは確信になるとはどこで誰が言っていたことだったろうか。
 だからこそ今、こうしてnoteにメモを残しているのだ。
 自分にとってこのささいな気づきは、異なる新たな価値観を完全に受け入れるのに十分に大きい出来事だったのだ。


 つまり、私は、二次創作で単純に癒されたいと思っているだけなのではなかったのではないかということだ。

「三次元で自分が救われないことがあっても、二次元でもいいから、苦しんでいる人が救われる世界があれば、それで嬉しい」
「自分ができなくても、誰かが到達してくれたらそれでいい」



 長年ぼんやりと楽しんできたことを、明確に言語化できたことを、とても喜ばしく思う。
 わたしは「自分が」という気持ちで邁進していたつもりで、自分でも気づかないところで「誰かが」成し遂げてくれることに期待していたのだ。
 自分がやらなければいけないことはなかったのだ。
 自分の思いを受け継いだ誰かがやってくれたらそれでいいのだ。
 自分で全てをやりとげたいそうしなければ意味がないと思い込んでいたわたしには、あまりにも目から鱗の気づきだった。
 おかげで、ひとつ自由になったように思う。


 最近になって色々と自分の考え方が変わってきたことを、よく感じる。
 この歳になったって、中身は20歳の時と何も変わらないななどと思いながら、確実に、子供の頃とは違う景色も見えるようになった。
 以前は、自分にしかできない仕事がしたい、自分にしか描けない絵が描きたいと思っていた。けれども、昨年病気が発覚して仕事を一時期休んだおり、全くノータッチだった方に引き継がねばならないとなった時にそれは足かせになると気づいた。独自性は求められるが、チームワークも必要不可欠な仕事である。私じゃなくてもできるような仕事にした方がいいかもしれないと思った。
 姪っ子たちのことを考えると、自分たちよりももっと幸せになって言ってほしいと思う。大人が犠牲になってでも、この子たちを守りたいという気持ちがわかるようになった。自己犠牲というと、変に美化されすぎたり逆に貶められたり、言葉の重みが強すぎるので使いたくはないが、自分よりも誰かのためにと何かを思うこと、行動することには、やっぱり価値があるのだと思う。それは生存に有利だったからっていうだけの、後天的な社会性なのかもしれないけれど。

 ある程度まで自分の学びや経験を積んできて次に思うことは、誰かに伝えて、誰かがよりよく生きていくための、糧になれることをしてみたいということだ。
 おそらく、自分一人で完遂するには時間が足りなすぎるということ、おそらく死ぬ前に何かを残したいということ。
 わたしたちは一人で完成する独立した個体ではない。誰かから受け取った何かを育て、それをまた誰かに伝えていく、繋ぎの生き物なのだと思う。
 自分で全てをやる必要はない、誰かに預けてもいい。
 受け取る喜びもあるが、手放していく喜びもある。
 伝えるということは、生きることそのものなのかもしれない。

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