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うたかたの美徳を消しゴムでゴシゴシ

自慢ではないが、私は鴨長明著「方丈記」を

世の中にある人とすみかと、またかくの如し…

までそらで言うことが出来る。なんなら節をつけて歌い上げることが出来る。高らかに。

理由は簡単で、「にほんごであそぼ」を観ていたからである。というよりも、いくつかCDを持っていて未だに聴いているから、の方が正しいかもしれない。

そのせいでまたかくの如し… までは歌えるけれども、甍(いらか)がどうとかのくだりはあまり覚えていない。どうせ建モンは崩れるから建てるな、みたいな話だった気はするけども。違ったらごめん。

でももしそうだとして、
ほんなら人はどうせ死ぬのになんで生きてんねん!
ってアホな関西人が言ってきたら鴨長明はなんて答えるんやろ。人も建モンも同じちゃうんか。

…先述したように私は、うなりやべベンが三味線片手に、様々な古典に節をつけて歌い上げるシリーズが当時から大好きだ。「平家物語」が特にお気に入り。たけき者も遂にはほろびぬ… が繰り返されるところなんて、曲としても一級品で感動を覚える。
子供たちの洗練されすぎていない歌声もまたいい。

ところで、私が覚えている「方丈記」の一節の中で

かつ消えかつ結びて

というものがある。

よどみに浮かぶうたかたは、に続く言葉で、久しくとどまることなし、で締められる。

泡をこの世界全般に例えており、それらは消えたり生まれたりするものであって、永く存在はできないということを言っている。はず。

消える、が先に来てる所もポイント。生まれて死ぬ、終わり、ではない。死んでは生まれ、生まれては死んで、死んでは…… わかりやすい輪廻転生思想の表れである。鴨長明は芸が細かい。

消えたり生まれたり留まったりラジバンダリ。

そういった所謂「諸行無常」「盛者必衰」の考えこそが美徳とされていたことに違いはないし、おそらく未だにその思想は根強く残る。実際私もそう。一年中咲く桜は桜ではない。そして美しくない。留まるべきものだけがそこに留まればいい。流れゆくものはそのまま流しておけばいい。

会話の途中で思い浮かんだ言葉やアイデアは、留めようとせず、流れに任せなさい、といったことをTEDで説かれたことがある。そこに固執していると、相手の言葉に集中できないから、と。成功しているプロインタビュアーの言うことだから、それに間違いは無いのだろう。

また、アイデアはあまり書き留めすぎない、と荒木飛呂彦先生もの中で言っていた。どうせ忘れるようなアイデアは大したアイデアではなかっただろうから、と。成功している漫画家の言うことだから、それに間違いは無いのだろう。

暫くは私も先人たちの教えを厳かに守り、考えたことや思いついたことをあまり留めようとはしてこなかった。短期記憶が弱いから、とんでもない思想に辿り着いても、忘れたらそれまで。脳内一期一会である。

そんなある日のこと、私は友人と電話をしていた。

その人と電話をしていると、自分一人では到底たどり着かなかったような境地に行くことや、自分でも驚くような語彙が飛び出すことが多々ある。
そういう意味で唯一無二の友人だ。

その日もまさにそんな感じで、一人で考え込んだり勉強しただけでは決して手をかけなかったフェーズの言葉が、考えが、出てくる出てくる。

そしてその光景を俯瞰で見つめる己もまた、そこに存在しているのだ。その場に生まれ落ちては消えていく言葉、思想、そして

そう! これこれ! まさに言い得て妙って奴! あ〜 私よくこんな考えに到達できたな! 日本語サイコ〜〜!(支離滅裂)

というメタ的な感覚。
こんな感覚を何度も覚えていくうちに、「忘れたくない」と強く思うようになった。聞いた言葉、読んだ言葉、言った言葉、思った言葉…

だから私は書き留めることにした。流れゆくものは…? 知らん。紙にちゃんと「うたかた」って書く。これで消えへんぞ。4Bの鉛筆しか手元にないからすごい濃い。
もちろんスマホにも書く。断片的でもいいから感じたことはすぐに書く。だって、忘れたくない!

そんな適当なメモが割と溜まってきたのも、noteを始めたきっかけである。
誰かにこの思いたちを吐露したい気持ちと、そこからどう思われたいか、みたいな虚栄心もある。

でもやはり第一の動悸は、「ちゃんとした文章におこして、残したい」。である。

こんなん言ってて三日で終わったら笑って欲しい。
毎日更新はさすがにせんけど。
…なんでnote始めたかの話でした。終わり。(風間望

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