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【コラボ小説】ただよふ 5(「澪標」より)


昔の夢を見ていた。
その日は霧雨が降っていた。
僕は研究室にいて、そこで父親の危篤を知らされた。
研究室の近くに巣を作っていたムクドリの糞の匂いが立ち込めていたのを覚えている──


あなたとは元町・中華街駅の出口で待ち合わせた。
真っ白のワンピースを着たあなたは、僕の姿を見つけるなり、屈託のない笑顔で「おはようございます!海宝課長!」と挨拶してきた。

僕は高まる心音を、心の中で「公園仲間、公園仲間だから…」と反芻することで鎮めた。

「おはようございます。今日はあいにくの雨ですが、公園の案内宜しくお願いします。」
「はい、お任せください!」
張り切るあなたは、とても愛らしかった。

あなたの方から、グリーン系の香水の香りがした。
以前あなたが「自宅でしか付けない」と言っていたのを思い出し、プライベートでも僕に会いたいと思ってくれたのだと自惚れてしまいそうになった。

もしも天気が良かったら、自制心が利かなくなっていたかもしれない。
雨の、土の香りが、「お前には守るべき家族がいるだろう?」と語りかけてくるようだった。

港の見える丘公園の高台から眺める海は、霧でけぶっていた。
横浜港やベイブリッジは霞み、小さな観光船は霧の中視界から消えていった。

父の死、母の寂しげな横顔、妻の病で苦しむ姿、親を気遣う健気な息子の姿。
浮かんでは波に漂って、海の底に飲まれていった。

あまりにも長く海を凝視していたにも関わらず、あなたは黙って寄り添っていてくれた。

公園を出る時、「今日は香水をつけているんですね」と聞いてみた。
「はい、ロクシタンのエルバヴェールです。ホーリーグラスとハーブの香りが気に入って愛用しています」
「緑の香りが瑞々しくて、地に足をつけて立っているあなたらしい」
あなたは決して死に飲み込まれない、そんな気がした。

「課長も今日はつけていますよね?」
「あなたとの外出なら、つけても大丈夫だと思いました」
好きなものが共通していることは、僕に安心感をもたらした。

「匂いって、それと結びついている記憶を呼び覚ますと思いませんか?」
「わかります。どれだけ時間がたっていても、知っている香りがふっと漂うことで、沈んでいた記憶がよみがえることがあります。匂いは、他の感覚器にはない方法で、記憶を刺激するのかもしれませんね」
「はい。課長は雨の匂いで何を思い出しますか?」
そうあなたに尋ねられて、僕は今朝の夢を思い出した。

「僕はムクドリですね」
「ムクドリですか?」
あなたは不思議そうに聞き返した。
「学生の頃、研究室の周囲の木々にムクドリの巣があって、夕方になると戻ってきたんです。空が真っ黒になるほどのムクドリが上空を旋回していて、鳴き声もやかましくて、アレルギー持ちの奴は外に出られないほどでした。木々の下のタイルは、羽毛が散らばり、糞の染みでいっぱいで、歩くのが嫌でした。雨が降ると、その匂いが強烈に立ち昇るんです。雨の匂いと、その匂いは僕のなかで分かち難く結びついているんです。いま、新松戸に住んでいるのですが、街路樹にムクドリの巣があって、学生の頃と同じ状態です。僕はよくよくムクドリに縁があるみたいですね」
僕は、情緒も何もないですねと笑った。

「それなら、雨の匂いがしたら、今日私とここに来たことを思い出してください。私のまとっていた香りも一緒に。ムクドリよりはましでしょう?」
あなたは何の気なしにそう言ったのかもしれない。
だけど僕にとっては救いの言葉だった。
「そうですね。今日から塗りかえることにします」
この日から僕は雨が降る度に、あなたと公園を散歩したことを思い出すようになる。

雨に濡れる外国人墓地を散策している時、あなたに尋ねられた。
「さっき、何を考えていたんですか?」
「うん?」
「港の見える丘公園で、海を眺めているときです」
「ああ、退屈させてしまいましたか? すみません」
あなたは小さく首を横に振った。
あなたの差す深緑色の傘から滴がしたたり落ちた。

「お父さまとの思い出の世界にいたのですか?」
「あなたが黙っていてくれたから、いろいろ考えることができました」

僕は傍らの墓石に触れ、そっと撫でた。
墓石に、余裕をなくし死に惹かれていた頃の自分を投影していた。
濡れた指先を持て余しているとあなたはタオルハンカチを差し出した。
一瞬あなたに考えていることまで共鳴してしまったのかと思った。
僕はタオルハンカチを受け取り、丁寧に指先を拭ってから、ありがとうと返した。

「彼らは、ここで安らかに眠れているのかな?」
祖国を遠く離れた彼らは、どんな想いで永遠の眠りについたのだろう。
父は最期に何を想っていたのだろう。

「わかりません。でも、そうあってほしいと思います」
僕は、あなたに顔を向けて深く頷いた。

「僕の父は、商船の航海士でした。働き盛りのときに、心臓発作で病院に運ばれて、意識がもどらないまま翌日亡くなりました。遺灰は、母の願いで海に撒きました。あの人は、土に還るよりも、世界中を航海したいんだと……。僕も弟もそれでいい気がしたんです」
「そうでしたか……。海に来ると、お父さまに会えるんですね」

「ええ。でも、死者は何も言わないんです。父は年を重ねるにつれ、寡黙になりました。仕事と自分の殻にこもって、僕たちともあまり話をしたがらなかった。遺言など遺していたはずもないから、送り方は残されたものの自己満足だったかもしれないですね……」
「それでいいと思います……。どんなに話しかけても、亡くなった人はもう何も言ってくれないのですから。たとえ送り方が、亡くなった方が望んだことと違ったとしても、残された方がその方を思って決めたならそれでいいと思います」

「そうですね。死者は、どんなに話しかけても、答えてくれない。だから、振り回される必要もない」
「ええ。死者との対話は、自分の心との対話なのかもしれません……」

終わりのない、妻の双極性障害という病との戦い。
答えを求めて振り回されているのは、生きている僕自身との対話だからだ。

墓地を出て、坂を下りながらあなたに振り返った。
「あなたと話していると、心の深いところで燻っているものがほどけて、視界が広がっていきます……」
「何か哲学的ですね。良いほうにとるべきか、悪いほうにとるべきかわかりません」
僕はそれに答えず、逃げるように歩調を速めて坂を下っていった。雨脚は共鳴するように強まっていった。

「また、こうして出かけられますか?」
僕はあなたの問いかけに聞こえないふりをして、歩調を崩さなかった。

あなたは追いかけてきて、僕の傘の柄を掴んだ。僕は困惑し、しばらく黙っていたが、あなたの手元に視線を落とし、くぐもった声で言った。

「危険なんです……」
「何が危険なんですか。私たち、ただの公園仲間です。指一本、触れていないじゃないですか」
傾げた傘からぽつぽつと落ちてきた水滴が、僕とあなたの肩を濡らした。

「だからこそ、危険なんです。肉欲に溺れるより、ずっとたちが悪い」
僕は柄を掴んだあなたの手をそっと外し、坂を下り始めた。

「何なんですか、それ?」
あなたは苛立ちを隠せず、声を荒げた。
あなたには僕の言うことを「理解しないで」欲しかった。

これ以上あなたといたら、僕はあなたに依存してしまう。
そうなったらあなたにすべてを…妻の病の事まで打ち明けてしまう確信があった。

僕に敏感に共鳴してしまうあなたは、きっと自分事のように思ってしまう。そんな重いものをまったく関係のないあなたに背負わせる訳にいかなかった。
それは恋ですらなく、とても悲しいことのように思えた。

しばらく坂を下ってから足を止め、あなたに向き直ると、僕は出来るだけ穏やかな表情を作った。
「今度は、志津と竹内さんも一緒に、飲みに行きましょう。誘われていたのに、断ってばかりでしたからね」
「ずるいです……!」
僕は再び歩き出し、遠ざかるあなたの視線を感じつつも、二度と振り返ることはなかった。


その日を境に、あなたへの態度は形式的になった。
あなたは何か言いたげにしていたが、僕は目をそらし続けた。

僕はあなたの言うとおり、ずるい男だ。
かつて仕事を優先したせいで妻を病に追い込んだのに、あなたを求めようとする感情を振り払うには、仕事に逃げるしか術がなかった。


may_citrusさんの原作「澪標」、こちらも併せて読んでいただけると、物語をもっと楽しめます。


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